書名の「笛吹き男」の括弧は、絵本や教科書などを通じて私たちもよく知る、1284年にドイツのハーメルン市で130人もの子どもが失踪した事件をめぐる伝説を意味するとともに、この伝説を多様な観点から研究した阿部謹也氏の名著『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』をも意味している。
本書は、阿部氏の考察には伝説のもとになった「正体」すなわち事件の真相の解明が欠けていることに気づき、歴史家の立場から、阿部氏の考察を高く評価しつつも、多くの資料や解釈を丹念に洗い直し、さらには阿部氏以降の研究をふまえて、その真相の復元に迫ったものである。考察は微に入り細に入り、なおかつ当時の時代状況をふまえたもので、しかも簡潔な文章で書かれており、極めて明快で説得的である。
この伝説には謎が多い。事件の発生は6月26日の「ヨハネとパウロの日」とされるがはたしてそうか、笛吹き男の正体は何者か、子どもたちをさらった笛吹き男は鼠捕りでもあったのか、子どもたちをどこに連れ去ったのか等々。著者はこうした謎を次々に解明し、あたかも事件当日の様子を目撃していたかのように鮮やかに復元して見せる。
中でも著者が力を注ぐのは、子どもたちの移住先とそれを手助けする笛吹き男=ロカトール(植民請負人)である。諸説ある中で阿部氏も東方移住・植民説に多くの紙面を費やしていたが、伝説の歴史的背景としては認めつつも、これをこの伝説の起源と断じていたわけではなかった。
しかし、著者は新資料も加えて、この東方植民説を強く支持する。というのも、著者のもう一つの主要な関心が、当時辺境の地であった北東ドイツ(ブランデンブルク選帝侯領)と、絶えず異民族と対峙しながらさらにその東方に領地を拡大していった地域(ドイツ騎士修道会国領)に向けられているからである。異教徒の地を制圧しキリスト教に改宗させて新しい領地にするためには、植民すべき民が必要であった。そこで、騎士修道会などの依頼を受けたロカトールは、西方の地域を回って植民者を募った。従って、著者によれば、件(くだん)の事件は、当時ではよく見られた植民者募集に、たまたま子どもが巻き込まれて事件になったにすぎなかったのだ。
興味深いのは、著者の関心がこれにとどまらず、後半ではドイツ騎士修道会の東方への領土拡張の「衝動」もしくは「運動」が、デモーニッシュな地下水脈となって生き続け、ヒトラーの東方侵略となってよみがえってきたことにまで説き及んでいることである。つまり、ヒトラーの所行の数々は「20世紀の笛吹き男」であり、その精神の核には「ドイツ騎士修道会」の精神が息づいていたと説いている。その意味では、本書はドイツの裏面史とも言えるだろう。
はまもとたかし/1944年、香川県生まれ。関西大学名誉教授。ドイツ文化論・ヨーロッパ文化論専攻。著書に『図説ヨーロッパの装飾文様』『ポスト・コロナの文明論』『「窓」の思想史』など。
こまつかずひこ/1947年、東京都生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。近著に『怪異の民俗学』(責任編集、全8巻)など。