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 市電はここから地場の百貨店・山形屋の前を通って北に向かうが、石燈籠の間を抜けていづろ通りからまっすぐ東に行くと海に出る。鹿児島のシンボル、桜島が正面に見える港街。鹿児島中央駅や天文館の賑わいぶりからすっかり忘れていたが、鹿児島は港街でもあるのだ。

 

 城下町としての鹿児島は、このように東に海を持ち、さらに甲突川がお堀代わりに流れ、西側にはシラス台地の高台が控えるという地形がゆえに誕生したという。

 中世以来、700年にわたって薩摩の地を治めた島津氏が、鹿児島を根拠にしたのは1343年のことだ。そのときは、鹿児島市街地から見て北の外れの海沿いの、東福寺城だった。

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 そこから戦国末期に内城に移り、関ケ原の戦い後の1602年にいまの市街地のほど近くに鹿児島城を置いた。背後に城山を抱えるお城は、以後“鶴丸城”などと称されて薩摩藩の拠点になっている。

幕末から激動に巻き込まれていく…「市街地の実に93%が焼けた」

 そして、このお城を中心に海に向かって開けたのが近世薩摩藩の城下町・鹿児島だ。海の向かいに桜島があった風景は今と変わらない。が、鹿児島の街は幕末から何度も戦禍に見舞われることになる。

 最初は1863年、生麦事件に端を発する薩英戦争だ。次いで明治になってからは、西南戦争で焦土と化した。西郷どんは、最後に城山にこもって戦って、「もうここらでよか」。終焉の地は、天文館からも歩けるほどの場所だ。天文館の北西側、城山のふもとにある鶴丸城跡の周囲には、西南戦争の弾痕も残っている。

 

 そして先の大戦では、南方に向けて開けた港街という軍事上の要衝だったがゆえに、実に八度も空襲を受けた。市街地の実に93%が焼けたというから、まったく市街地は失われてしまったのだろう。

 そうした戦禍のたびに、鹿児島の街は復旧してきた。古い城下町の町割りは消えてもおおよその形は維持される。もともとは海に向かって街が広がっており、天文館周辺は旧士族屋敷の荒れ地だったという。そこに路面電車が開通し、映画館がやってきて、繁華街が形成された。大正から昭和の初め頃、すでに天文館は鹿児島最大の繁華街になっている。

 そして戦後には、焦土からの復興計画で鹿児島中央駅を中心とした街路が新たに整備され、駅前を南北に通る大通りと3方向に分かれる大通り、という今に続く街の形が完成したのだ。