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「あの子は裸で原稿を取りに来た」作家・桐島洋子の原点となった文藝春秋の9年間

2023/01/23

作家の桐島洋子さんが文藝春秋に社員として勤めていた1956年から65年までの9年間を、長女・かれんさんと一緒に振り返る。対談「『文春の放蕩娘』と呼ばれて」を一部転載します(「文藝春秋」2023年2月号より)。

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「子供春秋」を作っていた少女時代

 創刊から100年とは驚いたわね。今もたまに読みますが、昔から変わらない印象です。私が文春に入社したのは今から60年以上も前のことで、それなりに色々あったけど、忘れてしまったことも多いわね。

 こう語るのは、作家の桐島洋子さん(85)。昨年6月に自叙伝『ペガサスの記憶』(小学館)を上梓すると同時に、約8年前からアルツハイマー型認知症を患っていることを公表した。1972年に『淋しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。以来、自由に生きる理想の女性として人気を呼び、執筆業からテレビ出演に至るまで幅広く活躍してきた。1956年から65年までの約9年間は、文藝春秋に社員として勤めており、今回、長女のかれんさんと一緒に当時の思い出を振り返ってもらった。

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大宅賞の贈呈式 ©文藝春秋

 かれん お母様は子供の頃から編集者になりたくて、「文藝春秋」も愛読していたんでしょう。

 洋子 両親が購読者だったから毎月必ず読んでいたのね。小学生のころ、憧れるあまり「子供春秋」なんて雑誌を勝手に作って、自らを編集長に任命しては記事の目次づくりに熱中したこともあった(笑)。

 かれん 文章を書くのも好きだったし、小学校時代の親友と、毎日のように手紙を交換したと言っていたわね。それが作家の永井龍男さんのお嬢さんだったのでしょう。

 洋子 そう、彼女とは仲良しだったの。私が書いた葉書を目にとめた永井先生が「この子は文才がある」と認めてくれていたそうよ。高校卒業の時、経済的な事情から進学できなくて、就職せざるを得ない悩みを手紙に書いて送ったら、それも永井先生が読んで、「文春を受けたらいい」と勧めてくださった。高卒の採用があるなんて思ってなかったから、驚いたけど、ありがたかったわ。

 桐島さんは1956年、当時、銀座にあった文藝春秋へ入社。まだ18歳で、最初に配属されたのは販売部や受付係だった。

 かれん 販売部の時は伝票整理の計算が面倒くさいから、家に持ち帰り、自腹で雇った学生アルバイトたちに代わりに計算させていた。

 洋子 計算だけは大の苦手で、無駄だと思うことに人生の限られた時間を使いたくなかったのよ。その代わり、学生たちの論文の課題をみてあげたりしてね。お蔭でいい勉強にもなった。

 かれん お母様らしい(笑)。