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「あの子は裸で原稿を取りに来た」作家・桐島洋子の原点となった文藝春秋の9年間

2023/01/23
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時には馬に乗り、水着で原稿を取りに

 かれん 当時から言葉のセンスがあったのね。「文藝春秋」編集部でも、小見出しやキャプションをつけるのが上手くて、お母様が一手に引き受けるから、「キリの独壇場」なんて言われてたのよね。

桐島かれんさん ©文藝春秋

 洋子 そう、編集者として働けるのが嬉しくて、大張り切りしてた頃ね。当時は雑誌を校了した後に、自分たちで新聞広告のフレーズを考えていたの。私が作業に熱中していると、時々、編集局長の池島信平さんが覗き込んでね。「おお、キリさん、なかなかやるじゃないか」と褒めてくれたのよ。

 全国紙の全面広告で「文藝春秋」をアピールする名文句を考えてくれって指令を受けたこともあった。大役だったけど、深く考えず、気楽にササッと書いちゃったの。そうしたら結構、評判が良くてね。どんなフレーズだったか、もう忘れちゃったけど、池島さんに「電通に任せたら、幾ら吹っかけられるかわからなかった。今日はキャビアを奢ってあげるよ」とお礼を言われて、「花ノ木」という高級レストランに連れて行ってもらったことは覚えているわ。

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 入社当初は四畳半の安アパートが桐島さんの住まいだった。だが石原慎太郎の原稿を取りに行った際、彼の仕事場だった芝公園前の日活アパートを見て「ここに住みたい!」と、即決。家賃は高額で、当時の給料1か月分だったが構わずに移り住んだ。

 以来、その部屋には記者や編集者仲間が大勢集まり、毎日のように宴を催したという。その後も懐事情に合わせて住まいを転々としたが、よく働き、よく遊ぶ日々を送った。

 かれん 「文藝春秋」の編集者の頃は石原さんや、三島由紀夫さんの原稿も貰いに行ったんでしょう。

 洋子 三島さんのところにも行ったと思うけど、よく覚えてないわ。直接、担当してたわけではなかったし。ただ室生犀星さんは忘れられない。軽井沢の別荘へ原稿を取りに、私は馬に乗って行ったのね。当時は乗馬に夢中で、軽井沢なら駆け巡ってもいいだろうと考えたわけ。

 かれん 一応は乗り物だけど、普通はタクシーでしょう。そんな編集者、他にいないわよ(笑)。

 洋子 別に馬に乗って原稿取りに行っては駄目なんて規則はないですからね。ただ、室生さんはビックリしたんでしょうね。彼が何かの雑誌に「B社の婦人記者が門口に馬を繋いで、しなやかに鞭を鳴らしながら現れた」なんて書いていたの。それを見た編集長に「これは君のことだろう。もうちょっと常識的な身動きはできないのかね」と、あの時はさすがに叱られたわ。

 かれん 作曲家でエッセイストの團伊玖磨さんのお宅に行った時も顰蹙を買ったんでしょう。

 洋子 ええ。團伊玖磨さんの場合は必ず長く待たされるから、いつも水着を持参して近くの海で泳いで待っていたの。それが、ある日、夕立に遭って、浜辺に置いていた洋服がびしょ濡れになっちゃった。仕方なく水着姿のまま原稿を取りに伺ったのね。そうしたら、「あの子は裸で原稿を取りに来た」って言いふらされちゃったのよ。まるで私が色仕掛けしたみたいに(笑)。

 かれん いつも水着を持参してたっていうのがおかしいわよね。

 洋子 編集たるもの、いつ何が起きるか分からないし、だいたい原稿を待つことが仕事でもあるからね。水着くらい持ってるわよ。

 かれん 「同級生交歓」も担当していたのよね。企業の社長や文化人たちが、学生時代の同級生同士で集まって記念写真を撮るページ。元共産党で政界のフィクサーなんて呼ばれていた田中清玄さんが出た回も、お母様が担当したって言ってた。私が中学生の頃にパリで一緒に食事をしたことがあるから覚えてるんだけど。とても紳士な方だった。

 洋子 その時は、評論家の亀井勝一郎さんも旧制函館中学の同級生で一緒に写ったはず。清玄さんは、撮影現場で初めて会うなり、「桐島さんは三菱財閥の桐島像一さんのお孫さんか。あの方は実に立派だった」なんて言って。財閥は共産党の敵なはずなのに、調子のいい人だなと思ったわ。超高級ブランドずくめの服装で、ネクタイから靴下までいちいち講釈付きで見せびらかすので、それも何だか嫌だった(笑)。

「『文春の放蕩娘』と呼ばれて」全文は、「文藝春秋」2023年2月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

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「文春の放蕩娘」と呼ばれて
「あの子は裸で原稿を取りに来た」作家・桐島洋子の原点となった文藝春秋の9年間

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