認知症になった父との日々を描いたノンフィクション作家・髙橋秀実の新刊『おやじはニーチェ』より一部抜粋。同じことを内容を繰り返す父に対して湧き上がってきた思いは――(全2回の2回目/前編を読む)
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同居はそろそろ限界、経済的に破綻してしまう…
――それじゃ、ウチに帰るからね。
夕食後、いよいよ私は父に宣言した。同居はそろそろ限界だった。実家にいるとまったく仕事もできず、このままでは経済的にも破綻してしまう。「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」を契約したので、家には緊急電話が設置され、ヘルパーが毎朝安否確認に来て、食事を出したり掃除や洗濯もしてくれている。異常があればすぐに私の携帯電話に連絡をもらえるし、お願いすれば1日24時間、スタッフがいつでも実家に駆けつけてくれる。介護としては万全。私たち夫婦がいなくてもおそらく大丈夫だろう。
父を放置するわけではなく、距離を置いて自立を促す。実家から私の自宅は車で40分ほどなので離れて見守るというべきか。認知症とはつまるところ「ひとり暮らしができない」という障害である。父はこれまでひとり暮らしの経験がまったくないので、「できない」のではなく「したことがない」だけかもしれない。もしかすると父なりに独居生活を営める可能性もあるわけで、そのあたりも見極めたい。そう自分に言い聞かせて、私は荷物をまとめて実家を出ることにしたのである。
ところが、父はわたしにまとわりついてきて…
「重いなあ、このカバン。何が入ってるんだ?」
父はそう言って私のカバンを抱えた。
――いろいろね。仕事の資料とかね。
「そりゃ大変だ」
カバンを抱えたまま玄関までついてくる父。「ありがとう」と受け取ろうとすると父は「いいよいいよ、俺が持っていくから」と言う。
「行くんだろ?」
――いや、だから俺はウチに帰るから。
「ウチって」
――自分のウチ。
「どこ?」
――だから俺のウチ。
私は自分を指差した。
「だから行くんだろ?」
――だから俺は自分のウチに帰るの。
「だから一緒に行こうよ」
埒の明かない「だから」の応酬。「だから」は接続詞というより固執を意味する言葉だったのだろうか。
――だから、俺は仕事しなきゃいけないんだよ。
「仕事ならしょうがないな」