父が話をするから私は聞くのだが、私が聞くから父は話しているともいえる。「話す」と「聞く」は別の行為のようだが、話している時も話している自分の話を聞いている。父が同じ話を繰り返すのも「前に話した」ということを忘れたというより、私に話すことでその話を聞き、聞いたことを私に伝えようとしているのではないだろうか。
そのことに気がついたのは『名づけられないもの』(サミュエル・ベケット著 宇野邦一訳 河出書房新社 2019年 以下同)を読んだ時だった。「どこなのか、いまは? いつなのか、いまは? 誰なのか、いまは?」という見当識喪失の一節から始まる同書は、まるで散歩に出かけた父の心境を記録したかのようなのだ。
今となっては「認知症文学」と呼ぶべきだろう
ある日一歩踏み出したのに、ただそこに留まっているなんてことがあるか、いつもの習慣どおりに出かけて家からできるだけ遠くで昼夜をすごしたのではなく、そこは遠くではなかった。始まりはこんなふうだったかもしれない。もう自分に尋ねるのはやめよう。ただ休もうと思うだけだ、あとで用事がうまくこなせるように、あれこれ考えることもなく、ところがあっというまに、もう何も手につかなくなっている。どういうわけでそんなことになったのか、ささいなことだ。それ、それよ、と言ってみる、それが何かわからずに。
発表当初は言語批判の小説と評されたそうだが、今となっては認知症文学と呼ぶべきだろう。時空間の見当識を失った「私」の延々と続くモノローグ。父が何かを探し始め、探しているものを忘れて、探すことを探し続けるような展開だ。「私」には何もかもが不確かで精神的にも真っ暗闇の中で右往左往するのだが、主人公はやがて「この声は誰かのものにちがいない」と気がつく。
この声は誰かのものにちがいない、そうであってほしい、声が望むものを私は望む、私はその声だ、私はそう言った、声はそう言う、ときどき声はそう言う、それからちがうと言う、望むところだ、声には黙ってほしい、声は黙りたい、それができない、一瞬黙る、そしてまた始める、ほんとうの沈黙ではない、声は言う、……