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「声」は彼自身の声であり、話し相手の声のようでもある。声を聞いて声を発し、その声を聞いて声を発する。そもそも言語とは本質的に「聞き伝え」(G・ドゥルーズ、F・ガタリ著『千のプラトー』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明訳 河出書房新社 1994年)らしい。

 目にしたことを伝えるのはミツバチでもできるそうで、言語の言語たるゆえんは、目にしていない人が目にしていない人に伝えるという「聞き伝え」ができるということ。聞き伝えの「間接話法」こそが言語の本質らしく、認知症になると聞き伝えの無限サイクルに陥るのではないだろうか。「否定せずに話を合わせる」のはそのサイクルを加速させるわけで、父もどこか反復に疲れており、私との反復に常駐することで他人に心を閉ざしているように思えるのである。

どのように父とコミュニケーションをはかるのが良いのだろうか

 それに「言うことを否定せずに話を合わせる」とは相手の人格を尊重しているようだが、日本人のコミュニケーションの特徴であり、もっとも楽な会話術にすぎない。安易な対応ともいえるわけで、父の言い逃れを助長してきただけかもしれない。肯定的な会話=存在を認める、というのは一種の思い込みで、言うことを否定しつつ話を合わせることもできるのではないだろうか。

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 フロイトも指摘していたが、否定されることに快感を覚える人もいる。「苦痛を伴う快感」(「マゾヒズムの経済論的問題」/ジークムント・フロイト著『自我論集』中山元訳 ちくま学芸文庫 1996年 以下同)を求める人や「服従を強いられ、汚され、貶められる」ことによろこびを覚えたり、何も悪いことをしていないのに「無意識的な罪責感」から「処罰の必要性」を感じる人もいるのだろう。ちなみにフロイトは「否定」についてこう分析していた。

 抑圧された表象の内容や思考の内容は、それが否定されるという条件のもとでのみ、意識にまで到達することができる

(「否定」/同前『自我論集』) 

 人の本音は否定形の中にしかない。確かに私たちは「ちょっと違うかもしれないけど」「そんなわけないかもしれないけど」「よくわからないんだけど」「よく知らないんだけど」などと否定されることを枕詞に置いてから、本音を明らかにしていく。否定されることで本音になる。否定されてこその本音なのである。

 会話においては「現実を押しつけて混乱させない」「混乱させず、優しく見守る」(前出『名医の図解 認知症の安心生活読本』)ことも「適切な対応」とされているのだが、それも混乱のない整然とした状態を前提としている。しかし「混乱はどこでもやってます」と父が言うように、すでに父も私も混乱しているわけで、ならば混乱に混乱を合わせることで混乱を吸収したほうがよいのではないだろうか。

おやじはニーチェ

髙橋 秀実

新潮社

2023年1月25日 発売