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認知症になり同じことを繰り返しながらまとわりつく父と離れたい私…60歳になった息子が感じた“コミュニケーションの本質”

2023/01/26
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 世代的な特徴かもしれないが、父は「仕事」とさえ言えば、大抵のことは納得する。

「でもなんで今からなんだ? なんでこんな時間に?」

――そういう問題じゃなくて……。

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「仕事なんて、いつだってできる。どこだってできる。それで体を壊したら元も子もないだろう」

――そうなんだけどさ。もう行かないと。

「じゃ行こうよ」

 父はそう言ってカバンを抱きかかえたまま靴を履こうとした。父を制しカバンを取り返そうとすると、父が私の腕にしがみつく。振り払おうとしたのだが、転んでケガをさせてもいけないので、私は「あっそうだ」とつぶやいて居間に引き返し、「お茶でも飲もうか」と父を誘った。唐突な展開だが、父も私も直前のやりとりを忘失する習慣が身についており、私たちは自然に湯を沸かし、お茶をすすった。

©AFLO

「おいしい。なんでこんなにおいしいの?」

 父は歓声をあげ、私はカバンを見つめた。

 まとわりつく父。振り切りたい私。

私は介護の姿勢を間違えていたのではないだろうか

 振り返れば、私は20歳の時にこの家を出た。このまま両親に依存していると自分がダメになる。経済的にも自立しなければいけないと決意し、両親に「これ以上甘えるわけにはいかない」と宣言した。

 父は「甘えるとはなんだ!」と激怒し、その後しばらく口もきかなかった。親離れの家出だったわけだが、60歳を前にしてまるでその再現である。このたびはどちらが甘えているのかよくわからないのだが、実家に居ると実家全体が父のようで、父に覆い尽くされるような気がする。

 なぜ父はここまで私に依存するのか。いや、依存させているのは私であり、生活の自立を阻害しているのも私かもしれない。つまり認知症の原因は私ということで、私は介護の姿勢を間違えていたのではないだろうか。

 認知症介護の鉄則は「言うことを否定せずに話を合わせる」(鳥羽研二著『名医の図解 認知症の安心生活読本』主婦と生活社 2009年)とされており、私もそれに準じてきたつもりだが、冷静に省みると、私とのコミュニケーションに依存するあまり、ヨソの人と口をきかなくなっている。町内会で運営している喫茶店に出かけても、会話には一切加わらず、じっと私のほうを見つめ、まるで恋人のようにウインクしたりするのだ。