「排除される側になってもおかしくない」実感
泉 弟のような障害を持つ人同様、自分がいつ排除される側の人間になってもおかしくないと思っていたから、ということもあるのかもしれませんね。
――東京大学に入学されて、あの時代であれば“エリートの道”は確約されたようなものですが……。
泉 でも私は見ての通り、こんなキャラやから(笑)。就職活動なんかで「一人採用」という時に個性的という理由で選ばれやすいんだけど、逆に「一人除ける」となった時にも選ばれやすいっていう自覚があるんです。誰かを犠牲にして排除する社会において、自分がその「誰か」になる可能性をリアルに感じているんです。
――そしてついに市長になられた。
泉 小学生の頃からの目標やから、47歳で市長になったんは遅すぎるくらいの気持ちやったね。
――国会議員ではなく、市長を選んだのはなぜなのでしょうか?
泉 市長の方が自分には向いていると思ったからです。でも、その前には衆議院議員もやってましたよ。犯罪被害者基本法や高齢者虐待防止法、無年金障害者救済法の成立、介護保険法の改正などにも取り組みました。でも社会を大きく変える、ということは国会議員の1人ではできないなという限界もあらためて感じました。
こんなん言うと危ない奴って思われそうやけど、20代の頃は革命家になって社会を変えてやろうと思ってたんよ(笑)。
明石市から“革命”を起こす
――革命家ですか。
泉 東大でも駒場寮の寮委員長として学生運動や市民運動に身を投じていたしね。それであやうく退学騒動になったこともありました(笑)。
日本が大統領制だったら、私が国のトップになって国民目線の思い切った政策を打ち出すこともできたかもしれませんが、日本は議員内閣制。総理大臣は国民が選ぶのではなく、与党の有力者が選んでいる。それでは本当の意味で国民のための政治はできないと思っていた。
だったら明石市長になって、明石に独立国家を樹立してやろうと。そしてブータンのような、小さいけれど国民の幸福度の高い国家を目指そういう意気込みでね(笑)。実際に市長になって、独立国家は樹立しませんでしたが、市長の持ってる「予算編成権」「人事権」、この2つの権限を使って、できるところまでやってみようと考えたわけです。
写真=文藝春秋 撮影=山元茂樹
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