泉 だから両親は必死になって弟が歩けるように訓練しました。努力が実ったのか、たまたまなのか、小学校入学前になんとか歩けるようになったんですけどね、明石市はわざわざ電車とバスを乗り継いで養護学校に行けと言う。
交渉の結果、何があっても行政を訴えないことと家族が送迎することを条件に近くの小学校への入学を認めてもらったけど、あの時に私はこんな社会で死にたくない、せめて少しはやさしい社会にしてから死んでいきたいと思ったんです。
幼少期に気が付いた「社会構造の間違い」
――弟への理不尽な仕打ちに許せない気持ちが芽生えた。
泉 でもね、幸いなことに私の周りはやさしい人ばかりやったんで、怒りや復讐心が人には向かなかった。本来はやさしい人たちなのに、こんな理不尽がまかり通っているのは、社会の構造が間違っているんやろうと。これは変えなあかんと、幼心に強く感じたんです。
あと原動力になったのが母からの言葉やね。自慢じゃないけど、私は子どもの頃から勉強もスポーツも何やっても一番。そんな私に母は「普通でよかったのに、あんたが2人分の能力を持って生まれてきた。弟に返しなさい」と言ったんです。
――強烈な言葉ですね……。
泉 弟が幼い頃には心中も考えたそうですから、母も相当しんどかったんやと思います。でもその言葉が心に突き刺さって、いつも“自分が一番になること”に引け目を感じていました。弟や障害者の人たちには血の滲む努力をしてもできないことがあるのに、私はちょっと頑張ったら100点を取れてしまう。なんか申し訳なくて。
だから能力を返すことはできないけど、少なくとも人のため、社会のために使おうと。小学校5年生の時には、市長になって明石市をやさしいまちに変えるんだと腹を括っていました。そのために必死で勉強したよ。
まあ、変わり者やな(笑)。
東大進学で衝撃「周りは坊ちゃんばかり」
――市長は現役で東大に入学。卒業後はNHKに入局し、弁護士を経て国会議員になり政治の道へ進まれました。東大での生活はいかがでしたか?
泉 正直、がっかりしました。私は日本を変えてやろうと熱い気持ちで入ったけど、いざ東大に入ってみたら、そんな学生はほとんどいなかった。周りは親が裕福で家庭教師つけてもらって、参考書買ってもらってという坊ちゃんばかり。彼らは自分の成功を努力の結果と思っていたけど、私から言わせれば半分以上は環境ですよ、と。残り半分の努力だって、必ずしも報われるものと限らないことを、私は弟や障害者の人々を見てきたから知っている。
日本の最高学府にいて、将来政治家や官僚になって社会を引っ張っていくであろう人間が、そのことに無関心なままでいいのかとまた心に火が付いた。それで学生運動もはじめて、両親には心配をかけました。父親からは「いい加減闘いをやめろ」「うちもなんとか食えるようになったし、弟も大過なく生きとる」と言われたけど、うちだけがよくなればいいんとちゃうやろ、ひとりも取り残さない社会を作るまではやめるものか、と。
――なぜ、闘いをやめようと思わなかったのでしょう。