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「殺害、姦淫、残忍酷虐至らざるなく」

 被害者は必死に抵抗して、すさまじいほどの傷を加えられている。報知はさらに翌11月19日付にも続報を掲載したが、これが「稲妻強盗」の名が登場した最初だった。記事冒頭に犯行の大要を記しているが、いかにも当時の新聞らしい文章で、これが「稲妻強盗」のイメージを定着させたようだ(原文のまま現代仮名遣い)。

 稲妻強盗の出没(神代村強盗殺人の詳報)

「稲妻や昨日は東今日は西」。あるいは北に顕れ、あるいは南に出で、神出鬼没、巧みにその筋の追捕を逃れて、府下はもちろん近県を荒らし歩く1人の強賊あり。その押し入るや、主人を殺害し、婦女を姦淫するなど、残忍酷虐至らざるなく、ある時は刑事、巡査に化け、ある時は土方、立ちん坊を装いて白昼公然と横行するなど、実に近年たぐいまれなる悪漢なり。

初めて「稲妻強盗」と名付けた報知の記事

 以下、犯行の模様をさらに詳しく報道。賊が女房に「無心があって来たのだ」と言ったこと、邦太郎がいったん賊を組み伏せたこと、邦太郎を殺した後、女房らに「亭主はとどめを刺して殺したから、貴様たちも静かにせぬと打ち殺してしまうぞ」と脅したことを記述。

「着物が血だらけだから着物を出せ」と言って綿入れなどを出させたうえ、山高帽を被って「拙者も存外負傷をしたから、長く生きていられまい」と独り言を漏らしながら出て行ったと書いている。

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坂本という男が強盗殺人犯になるまで

 坂本はどのようにして残忍な強盗殺人犯になったのか。報知は逮捕後の1899(明治32)年3月1日付から「稲妻強盗の犯跡」と並行して「稲妻強盗の素性」を連載している。

報知は坂本一族の犯歴などを書いた「稲妻強盗の素性」も連載した

 実父が「性質怠惰」で、賭博癖から強盗事件を起こして逮捕・入獄したことに始まって家族の「素性」を詳細に報じ、いまなら名誉棄損、人権侵害とされる内容。比較的正確な「史談裁判第3集」を基に「警視庁史第1(明治編)」を参照しながらたどってみる。

 坂本は1866(慶応2)年9月、茨城県新治郡東村大岩田(現土浦市)の農家に生まれた。慶応生まれであることから「慶次郎」とも呼ばれたらしい。父は一定額以上の納税者に与えられる選挙権を持っており、相当の生活をしていたとみられる。

 のちの新聞報道によれば、坂本は姉、妹と弟2人の5人兄弟で、11歳の時、母と死別。継母に育てられた。「警視庁史第1(明治編)」によれば、若い継母に「虐遇」されて次第に性格がゆがめられていったという。

 小学校には行っていないが、一時寺で養育されたこともあって小学校修了程度の読み書きができた。また下手ながら短歌もどきのものを詠むのを好んだ。一家は父と次弟が賭博にふけって資産を失った。父と叔父はのちに強盗事件を起こしている。

 坂本も19歳のころから博徒仲間に入り、窃盗を数回重ねて1886年、重禁錮7カ月に処された。出獄後、強盗に入って人を傷つけたことから、1888年、水戸重罪裁判所で無期徒刑(現在の無期懲役)に。服役中に暴行事件を起こして罰を加えられ、北海道・樺戸集治監(現在の刑務所)に送られた。

「稲妻強盗」“誕生前”の足どりだが、転落の一途をたどっていることが分かる。