3回目の脱走で北海道を脱出
北海道は開発途上で、樺戸集治監の囚人は道路や鉄道の工事に使役されることが多かった。坂本はその際に2度にわたって囚人仲間と脱走を企てて失敗。刑を加重され、両足にそれぞれ重さ1貫目(3・75キロ)の鉄の玉を付けられた。
それでも1895年9月、3回目の脱走を試みて成功。函館で同宿した女と夫婦を装って青森まで逃げた。その間、金や衣服を盗んで旅費と服装に充てた。「なんのその思ひ(い)は晴れし今朝の雪」とは、この時に詠んだ俳句という。
1人になって栃木・塩原温泉で休養した後、古着屋で袈裟、法衣、網代笠(経木の笠)を買い、頭を丸めて托鉢僧の姿に。生地に帰ったが、一族は離散して生家も人手に渡っていた。
千葉町(現千葉市)の旅人宿に偽名で泊まっていたところ、巡査に怪しまれて調べられたが、窃盗1件のみ自白。千葉地裁で重禁錮3年に処された。当時はまだ指紋照合のシステムもなかったので、脱獄囚であることはばれなかった。千葉監獄で服役し、1898年4月に出獄した。ここから「稲妻強盗」の犯行が始まる。
初めての犯行とされるのは…
初の犯行とされるのは、1898年5月の出身地での強盗殺人。これについてもリアルタイムでの記事は見当たらない。11月30日付けから一連の犯行を取り上げた報知の連載「稲妻強盗の犯跡」の12月18日付と19日付では「東村の四人斬」として載っている。内容に100%の信頼はおけないが引用する。
稲妻強盗が東京府下及び千葉県葛飾郡内を荒らし歩いた事実は既に書いたが、日にちを元に戻して記者が茨城県に出張して直接調べたいきさつを記す。この稲妻強盗が北海道樺戸集治監を脱獄して以来、60~70カ所を荒らし回ったその手始めは、本年5月4日における茨城県新治郡東村大字大岩田、藍職人・坂本膳兵衛方の4人斬り事件だった。
坂本膳兵衛(50)は妻よし(42)、長男(21)、次男(18)の4人家族で、ほかに48歳の雇人がいた。当夜は午後10時ごろ、膳兵衛夫婦は奥の八畳間、他の3人は十畳間に寝た。11時ごろ、賊は表の半窓の壁を1尺(約30センチ)四方ばかり切り破って侵入。十畳間につけてあった豆ランプの芯をかき立てて明るくし、上り口の方に寝ていた雇人に突然バッサリ斬りつけ、右腕に長さ3寸(約9センチ)、深さ1寸(約3センチ)の重傷を負わせた。雇人が驚いて跳ね起き、見ると、手ぬぐいで顔を包み、藍縞の着物を尻端折りにして紺の股引をはき、竹の節のある1尺5~6寸(約45~48センチ)の仕込み杖を提げた1人の賊が立ちはだかり「静かにしろ。騒ぐと殺すぞ」と言い捨てて、奥の八畳に侵入した。賊は入るやいなや、寝ている膳兵衛に斬りつけて前頭部に長さ5寸(約15センチ)、深さは骨に達する重傷を負わせた。驚いて跳ね起きようとした膳兵衛にまたも斬りつけ、左の肩先に長さ4寸(約12センチ)、深さ1寸(約3センチ)ばかりの傷を負わせた。「静かにしろ。騒ぐな。起きねえでもいいわ」と言い捨てて、十畳間にとって返すと、手負いながら膳兵衛は「せがれは馬鹿ですから斬らないでください。せがれは馬鹿ですから」と二度三度声をかけた。賊は「黙っていろ」と言いつつ、長男に斬りつけ、こめかみに長さ6寸(約18センチ)、深さ1寸5分(約4・5センチ)ばかりの重傷を負わせた。
ここまででも凶暴さはありあり。犯行はさらにエスカレートする。