『日本の保守とリベラル 思考の座標軸を立て直す』(宇野重規 著)中公選書

「革新政党」も「進歩的」も今や昭和の遺物、死語だ。令和ではこれらを「リベラル」と呼ぶ。昔、娘の恋愛に寛容なパパを「リベラルな」と形容したあれだ。

 進歩革新に対する「反動」だって死語。しかし、「保守」というのは存命中。「リベラル」と「保守」。最近の日本ではどうやらこれが、政治や思想における対立軸らしい。

 では、「リベラル」「保守」って何? いまどきの若者は憲法9条を死守、改憲反対の共産党などが「保守」だと思っているそうな。リベラル系が敵視するネオリベの「リベ」は、リベラルではないのか。わけがわからない。

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 そんな状況下、政治思想研究当代の重鎮宇野重規は、「保守」と「リベラル」の原点まで遡ってあるべき姿を洗い出し汲むべきものを見つけようと前向きだ。リベラルなら丸山眞男、保守なら福田恆存、さらに近代日本思想の出発点福澤諭吉を取り上げ、思想的吟味を尽くしてゆく。

 しかし――。

 これら重厚な論考を興味深く辿れば辿るほど、何ともいえぬ徒労感、絶望感が襲ってくるのはなぜだろう。

 葉隠や荻生徂徠や陸羯南などのテキストにリベラルの微かな芽生えを見つけつつ、それらが遂にそれ以上育たなかった史実を認めざるをえなかった丸山眞男。明治維新と敗戦という革命的断絶を強いられ、以降も絶え間ない刷新と変転を重ねた日本には、本来「保守」などありえないと知悉していた福田恆存。

 飽くまで「保守」の「リベラル」の可能性にこだわる本書の結論が、保守よ、「自らが社会を担っているという自負と責任感」を持ちまた懐ふかく寛容であれとか、リベラルよ、多様な価値観を擁護する「気概と道理」を抱き個人の責任を強調せよとか、何とも抽象的な精神訓話に聴こえてしまうのも、これでは無理もない。

 実際、宇野も序章ほかで認めるように、我が国にはリベラルな思想家はいたが彼らをささえる裾野、社会的政治的勢力は脆弱だった。保守とされる政治勢力はあったが、そこでいう保守とは、状況(戦後ならアメリカ)追従と経済成長を意味するだけで思想ではなかった。これでは議論が、現実にひもづけされない空中戦に終始するのも無理はない。

 そう。もはや欧米由来の「保守」とか「リベラル」とかの枠組みを大前提としても何らたちゆかないのだ。本書最大の読みどころが第6、7章、村上泰亮による成長終焉後の日本国家構想紹介なのも、どこまでも日本風土の現実直視から積み上げられた思索だったがゆえだろう。

 もっとも、コロナ禍以降の少子高齢化加速で、教育・物流が崩壊しエリートは国外流出し、Quad外交が進展して、「日本」すら死語となりかねぬ今、この村上構想さえも、「リベラル」「保守」とともに平成・令和の遺物と化しそうな昨今なのだけど。

うのしげき/1967年、東京都生まれ。東京大学社会科学研究所教授。東大法学部卒業、同大大学院法学政治学研究科博士課程修了。『トクヴィル』でサントリー学芸賞、『民主主義とは何か』で石橋湛山賞を受賞。他著に『保守主義とは何か』など。
 

あさばみちあき/1959年、神奈川県生まれ。古本ブローカー。著書に『右翼と左翼』など。『自民党という絶望』にも寄稿。