北口に向かうとあの方のお姿が…
北口には(というか南口も同じなのですが)、広大なペデストリアンデッキが広がっている。デッキの下には大きなバス乗り場とタクシー乗り場があって、周囲を商業ビルが取り囲む。
このあたりはどこにでもある駅前風景といっていい。そして、ペデストリアンデッキの片隅に、ありましたよ皆さん。黄門様が助さん角さんを従えて、立派なお姿で立っている(像がある)。
言われてみれば、黄門様は水戸黄門、天下の副将軍・水戸徳川家のご当主であった。すぐ脇には三つ葉葵の御紋が描かれた大きな提灯もぶら下げられていて、水戸徳川家をしっかりアピールしている駅前なのである。
といっても、ホンモノの黄門様(徳川光圀)は、江戸在府を義務づけられていて参勤交代もしていなかった。なので、ほとんど水戸では暮らしていない。子どもの頃と、晩年に少し。もちろん水戸を拠点に諸国を漫遊したこともない。まあそもそも助さん角さんを従えた黄門様はフィクションなので、そのあたりをあれこれするのは野暮というものであろう。
いずれにしても、黄門様の像があるということは、やはり正真正銘北口が水戸の駅の正面口といっていいだろう。ペデストリアンデッキから正面を見れば、急な坂の上にお城らしきものもほんのりと覗く。
かつては徳川御三家のひとつ、水戸藩の拠点だったが、いまでは藩校・弘道館などが観光スポットとして整備されているほかは旧県庁舎と高校になっている。
弘道館は九代藩主の徳川斉昭が水戸城三の丸に設けた藩校で、いわゆる「水戸学」の発信地になった。
水戸学の発祥は黄門様、徳川光圀が編纂をはじめた『大日本史』にあり、徳川御三家にありながら尊皇思想を中心とした歴史観。幕末から明治にかけての思想的原動力となり、多くの志士や維新の立役者たちに影響を与えた。「そのせいで水戸は米軍の空襲を受けた」などという人もいたくらいに、水戸はその“歴史”が大きなアイデンティティになっている町なのだ。
駅前から進んで那珂川まで抜けると…
駅前から坂を登ってそんな歴史を今に伝える弘道館の脇を抜け、すぐにまた急坂を下っていくと、その先には那珂川が流れる。
栃木県の那須岳を源流に、栃木・茨城を北西から南東へと流れて太平洋に注ぐ川で、かつては流域一帯の物流を担いつつ、アユ・サケ・ウナギなども獲れる漁場だったという。
ウナギは江戸時代から水戸の名物のひとつとなり、サケは水戸徳川家から他の大名家に送られる贈答用として重宝されたとか。いつの時代も、ご当地の食材は地域の自慢になるようだ。