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 ここまで駅の周辺を歩くだけでもわかってきたように、水戸の町の歴史は古い。そもそも、北に那珂川・南に千波湖に挟まれた台地という地理的な環境がかなり優れている。いわゆる“天然の要害”だ。

 
 

 平安時代の終わり頃からすでにご当地の豪族の居館が置かれ、中世には江戸氏や佐竹氏によって水戸城と城下が整備された。佐竹氏は関ケ原の戦い後に秋田に移され、1609年に家康の十一男・徳川頼房が入って御三家水戸藩が成立する。二代藩主の光圀(黄門様)の時代には上水道が整備されるなど、城下町の整備が一層進み、いまの水戸の街の原型が形作られていった。

ふたつの城下町の“境界”だった「水戸」

 実は、その時代に整備された城下町はお城の西側の高台上だけではなかった。水戸駅から見て南東側の低地にも、江戸時代の初め頃に城下町が築かれた。

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 台地の一部を切り崩し、それで低湿地帯を埋め立てて生まれたのが、下町(のち下市)という新しい城下町。対して台地上、お城の西側は上町(のち上市)と呼ばれた。どちらにも町家と武家屋敷が同じくらい置かれ、規模としてはほとんど対等だったようだ。

 また、下町側は陸前浜街道のルート上にあたり、宿場町としても栄えていたようだ。ふたつの城下町が並び立つ水戸の町の形は明治に入っても続き、水戸駅が設けられたのはふたつの城下町の“境界”だった。目の前に役目を終えたお城、背後には千波湖といういかにも不便そうな水戸駅の場所は、じつはかなり合理的だったのである。

“上町”の中心市街地から“下町”へ

 “上町”の中心市街地から、水戸駅を経て南東側の“下町”も歩いてみよう。駅からは南口を出て10分ほど。上町よりは少し遠いが、まあ似たようなものだ。

 この下町にも国道51号という大通りがズバッと真ん中を貫いている。ただ、こちらの国道はメインストリートではなく、一本南に通るハミングロード513という小さな道がそれにあたる。

 

 かつては本町通りという名で下町の中心だった。いまもいかにも老舗然とした小さな店がいくつもある。上町と比べてこぢんまりとしていて人通りは少ないが、どことなく味わいのある、昔ながらの商店街といったところだろうか。

“上町”と“下町”の戦後を分けた理由は…

 かつては並び立っていた上と下。明治に入っても路面電車が通るなどどちらも一定の規模で栄えていた。今のように圧倒的に上優勢、ということなはなかったようだ。

 戦争では上は空襲で大きな被害を受け、下は軽微な被害で済んだ。これが結果として明暗を分け、復興計画の中で上町は大きく発展することになり、戦前からの流れを受け継いだ下町はのどかな商店街として残された、というわけだ。