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「下ろしてあげたい。でも機材がない。要員も足りませんでした。『ごめんなさい。明日、必ず来ますから』と心の中で言って引き揚げました。大人も運べる状況にはなかったので、タクシーの運転手にも謝って、そのままにさせてもらいました。ただ、1歳半の小さな女の子だけは連れて帰りました」

 女の子の車は母親が運転し、被災時は2人で乗っていたと見られる。車内に母親の姿はなかったが、3日後に遺体で見つかった。

「お母さんと妹をかえしてくれてありがとう」

 女の子を発見した時、車内には兄のものと見られるカバンがあり、住所と名前が書いてあった。これを頼りにカバンを届けると、後に「お母さんと妹をかえしてくれてありがとう」という手紙が届いた。

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 中武さんは今も大事に持っている。

 翌日、現地派遣されてから3日目の3月14日午前7時40分、鵜住居へ向かった大隊はかろうじて瓦礫が取り除かれた場所に集結した。ここで中武さんは派遣後初めての訓示を行った。それまでは全隊員に声を掛ける余裕さえなかったのだ。

 赤いメガホンを持ち、並んだ隊員の前に立つ。

「俺達は歴史に残る活動をしている。恥ずかしいことは絶対にしないでおこう。トイレがしたくなったら車を使っていいから、少なくとも山の見えない場所に行ってからやれ。被災者の前で食事はするな。津波警報が出たら、とりあえず山へ逃げろ」

 隊員も人だ。食事をしないわけにはいかない。しかも救助する側に体力がないと役に立たない。だが、十分な食料がない被災者の前で食べるのは御法度だった。このため車両の中など、見えない場所で食べるようにした。無法地帯のようになっている被災現場であっても「紳士たれ」と隊員達には徹底したのだった。

鵜住居地区に場所を移して活動を始める前、隊員に訓示する中武裕嚴さん(2011年3月14日、中武裕嚴さん提供)

 訓示が終わると、「あなたが隊長ですか」と声を掛けてきた男性がいた。重機のオペレーターだった。「私は国交省の依頼で国道を通しに来ています。あそこの道路に、津波に流された家屋が乗っかっているのが見えるでしょう。取り除かないと国道を通せませんが、私には家を壊す権限がありません。隊長さんが『いい』と言ったら壊しますから」と指をさす。

 確かに道路の真ん中に壊れた家があった。もとは2階建てだったようだが、1階は津波に破壊されて潰れてしまい、2階だけが道路を通せんぼする形になっていた。

このままでは道路が通れず、捜索できない。どうする…?

 家を壊す権限は自衛隊にもない。だが、そのままにしていては道路が通れず、捜索も何もかも進まない。中武さんは腹を決め、「分かりました。家の残骸を取り除いてください」と告げた。

 ただ、壊す前に約5人の隊員に命じて家の中を捜索させた。取り残された人を探すのはもとより、「金品、写真、ご先祖の遺影……、大事だと思う物は全て外に持ち出して、道路脇に集めろ」と指示した。