国道上には他にも多くの家が折り重なっていた。このため、約5人の隊員にはこれらの家を次々と捜索させ、大事な物を道路脇に持ち出させた。集めた物は、なくならないよう中武さんが見張った。
こうした「超法規的」な対応を取ったので、国道は片側だけだったが、その日のうちに通れるようになった。
最初の家を壊してから約2時間後、車で夫婦らしい男女が現場を訪れた。道路が通れるようになったので、入って来たようだった。
「ここに家があったと思うのですが、どうなったのでしょう」。そう尋ねられた中武さんはドキッとした。正直に話すしかない。「道路を通さなければならなかったので、やむを得ず壊させていただきました。これは壊す前に私達が外に出した物です」と説明すると、男女は隊員が持ち出した物を大事そうに抱き抱えて泣いた。そして「ありがとうございました」と頭を下げて去って行った。
鵜住居で特筆される捜索現場は、屋上の塔のような出っ張りに遺体が引っ掛かっていた鵜住居地区防災センターだ。
備品が散乱した中から見えた突き出した手や足
発災の約1年前に建てられたコミュニティ施設で、1階には市役所の窓口のほか、消防署の出張所もあった。津波の避難場所ではないのに、「防災センター」と名付けられていたのは、「防災」を名目にした施設だと建設費の借金がしやすくなる制度があったからだ。正式な避難所ではないのに、避難訓練では“避難所”として扱われ、誤った印象も与えていた。このため同センターが避難所だと思い込んでいた市民もいて、被災後に市がまとめた報告書によると、ここへ避難するよう指示した消防団員もいたほどだった。津波の来襲時には多くの人が身を寄せていたが、数は正確に分かっていない。市の報告書では2014年の時点で241人とされている。
津波は2階建てのセンターの天井付近にまで達し、2階のホールでは多くの人が亡くなった。建物内部からは69体もの遺体が収容された。
そうした捜索と収容を行ったのは中武さんの大隊だ。
「泥がたまり、備品が散乱した中から、突き出した手や足が見えました」と語る。
機械を使って捜索するわけにはいかず、全て隊員の手作業で遺体を収容した。
安置所は山側の林業関係施設に急ごしらえで設けられた。そこまで、救急車として使う自衛隊車両4台でピストン輸送したが、あまりに数が多くて丸2日間もかかった。
この現場は数々の災害に派遣されてきた隊員にとっても過酷だった。心配した師団長が現場に足を運び、心理カウンセラーの隊員も投入された。
だが、「派遣期間中、精神面の問題を抱えた隊員はいませんでした。気が張っていたからでしょうか、使命感もありました。むしろ、駐屯地に残した隊員に多くの作業が集中してしまい、体調を崩した人がいました」と中武さんは話す。