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 鵜住居では2日間で約80人の遺体を収容した。

 大隊はそこから道路が通れるようになった箱崎半島方面に捜索範囲を広げ、さらに20~30人を収容する。

 この段階で派遣から1週間が経過し、一度駐屯地に引き揚げて休むよう指令が出た。

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「隊員には家族に会ってくるように伝えました」。凄惨な現場で活動を続けていた隊員達にとって、ホッとする一瞬になっただろう。心と体を休ませて、次への活動につなげる重要なポイントになった。

 ただ、こうした「安息」は国家機関だから取れる。市町村には逃げ場がなく、5月の連休になって初めて休めたという声を被災地では多く聞いた。そしてこぼれ落ちるように休職したり、退職したりする職員が増えていった。市町村でも自衛隊のように心と体を休ませられる仕組みが導入できないものか。多くの市町村職員は被災者でもあるのだ。

 第9高射特科大隊はまるまる2日休んで3日目に集合し、改めて現場に入る準備をした。

 それから大槌町へ戻り、捜索に加わった。

定置網が瓦礫と化した家に絡みつき捜索を妨げた

「驚くような現場もありました。津波に後ろから後ろから押し潰されたのでしょう。どれくらいか分からないほどの軒数が1カ所に固まった場所がありました。その頃には陸上自衛隊でも重機を扱う施設科の隊員が全国から到着していたので、一緒になって瓦礫の残骸を取り除きながら捜索を行いました」

 この1カ所に押し潰された場所の捜索は難航し、1カ月ほどかかった。

多くの家が一カ所に集まり押し潰された現場(大槌町、中武裕嚴さん提供)

 遺体が潰されるようにして埋もれていて、瓦礫を慎重に取り除かなければならなかったからだ。一見してもう遺体はないだろうと思えるような場所でも、「鼻の利く」隊員が「ここに機械を入れて下さい」と言うと、発見されることもあった。

 さらに漁網とレールという障害物が邪魔をした。

 漁網は被災した漁船や漁業倉庫から流れ出したのか、それとも海中に仕掛けていた定置網が陸に押し上げられたのかは分からないが、瓦礫と化した家々に絡みついていた。これを取り除かなければ捜索が進まず、「非常にやっかいで、手間が掛かりました」と中武さんは語る。

 レールは三陸沿岸を走っていたJR山田線(現在は第3セクターの三陸鉄道に移管)のものだが、津波にさらわれてくねくねになり、これも瓦礫となった家々に絡みついていた。工具を使って切断しないと、その奥に掘り進められなかった。

 こうした活動を続けながらも、中武さんはある町民のことが頭を離れなかった。

 中武さんの部隊にいた60代半ばのOBだ。退職後は大槌町に住み、一緒に飲んだこともあった。「豪快で楽しい人でした」と語る。