震災の前年はちょうどチリ地震津波(1960年)の発生から50年だった。大槌町はこの津波でも被災した歴史があり、記念行事が行われた。当初は講演する予定がなかった中武さんだが、催しの間に時間が取れ、100人ほどの聴衆を前に「地震で津波が予想される時は、とにかく逃げてください」と訴えた。その時、OBは聴衆の中にいて、ニコニコしながら聞いていたのを覚えている。終わってから、「大隊長、ありがとうね」と声を掛けられた。
「無事だろうか」。中武さんは気になっていたが、現場で指揮を執らなければならず、避難所などを回る余裕はない。
そしてOBは帰って来なかった
発災から1カ月半ほどした頃だったろうか。大隊の幹部から「OBは津波の犠牲になったそうです」と伝えられた。
現場経験が豊富な元隊員だ。チリ地震津波の催しに参加していたぐらいだから防災意識は高い。地震が起きた直後には当然、高台へ逃げた。
だが、「逃げ遅れて取り残された人がいる」と聞き、津波が引いた一瞬に瓦礫の中へ向かったのだという。「一度は数人を連れて戻ったそうです。そしてまた瓦礫の中に入って行きました。まだ、救わなければならない人が残っていたのでしょう。しかし、それっきり帰って来なかったと聞きました。おそらく次に来襲した波に呑まれたのだと思います」。中武さんは寂しそうにうつむく。
それにしても、東日本大震災による津波では、どうして取り残された人が多かったのだろう。
中武さんは「大津波警報が出ていたのに、逃げなかった人がいたせいではないか」と疑問に思っている。それぞれ事情はあったのかもしれない。「でも、だからこそ1万8000人を超える死者・行方不明者が出てしまいました。助かる命がもっとあったのではないか」と悔しがる。“逃げ遅れ”がなければ、OBも命を落とさずに済んだかもしれない。
災害の犠牲者は決して美しく死ねるわけではない。激しく損壊される場合もある。事実、東日本大震災の犠牲者はDNA鑑定せざるを得なかった人が多くいた。
「母の首と胴体が別の場所で見つかった。大きな心の傷が残り、今も夢に見る」「遺留品から母の遺体かもしれないという写真を見せられた時、あまりの状態に『違う』と言ってしまった。実際にはDNA鑑定で母だったと分かり、『違う』と言ってしまった自分が許せないでいる」などという話を私も多く聞いてきた。
数々の遺体を捜索し、収容してきた中武さんは、そうした生々しい事実をもっと知ってもらうべきだと考えている。
「だからこそ、逃げなければならないのです。とにかく逃げてほしい」。強く訴える。
その気持ちが自衛隊を退職後、次なる仕事に向かわせた。
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