源頼朝以後、700年続いた武家政権=幕府は、どうやって自らを正当な統治機構だと認めさせたのか――。
歴史学者の東島誠さんは、『「幕府」とは何か』で気宇壮大な問いに挑んだ。圧巻は本書の3分の1を充てた鎌倉幕府の誕生までの軌跡だ。「武家政権の成立史をまったく新しく書き直す必要があった」と語る。本論に入る前には、“常識”にも揺さぶりをかける。たとえば、幕府は後世の用語だと言われていたが……。
「将軍とは区別された政治機構という意味での幕府の語は同時代史料にはないとされてきました。ところが、延応2年(1240)、高野山の住僧が『幕府御裁定』を求めた文書がある。さらにモンゴル襲来を契機に、関東の政権の重要性が増して『東関(とうかん)幕府』『東関柳営(りゅうえい)』と称されるようになります」
一方で、足利氏による政権を「室町幕府」と呼ぶ同時代史料はまったくない。
「幕府とは、中世においては、東国に誕生した武家政権に限って用いられていたのです」
では、鎌倉幕府はいつ誕生したのか。頼朝が征夷大将軍になった1192年ではなく、最新の学説では守護地頭が設置された1185年だと言われている。
「諸説の違いは幕府の正当性の根拠を何に求めるかによります。私は二段構えで考えていて、最初の正当性の根拠が『都市王権』です」
都市王権とは、飢饉や災害に対して、流通網を確保し、都市民を飢えさせないことで存立する権力のこと。京都は流通に依存しているため、周囲の流通路を遮断されると、食糧不足となり、“兵糧攻め”状態に陥った。
「都落ちした平家が西国にあり、頼朝が東国を、源義仲が北陸を押さえていた寿永2年(1183)秋には、折からの飢饉によって、京都への物流がストップ。そこで右大臣九条兼実の発案で、頼朝に荘園公領からの年貢等の納入を保証させる代わりに東国支配を認める宣旨が出されたのです」
従来、この宣旨は頼朝側の意向によるとされてきたが、じつは京都の貴族や大寺社が、窮状を打開すべく頼朝を待望したのだという。
「頼朝に委ねた地域に、兼実は自らの所領がある北陸を抜け目なく入れている。完全な利益誘導です(笑)」
京を居所とした足利将軍家の場合はどうか。応永の飢饉・疫病(1421~22)での四代義持の施策は、飢饉に弱い都市としての脆(もろ)さを露呈したもので、結果悲惨を極めた。だが、15世紀後半、状況が一変する。
「東アジアレベルで物流が活発化したことを背景に、八代義政の執政下では、年貢よりも市場経済への課税にシフトし、京は簡単に飢えない都市へと変貌します。また義政が頻繁に行った土木事業で雇用が生まれ、京に行けば食っていける、と諸国から窮民が押し寄せた。諸国とは対照的に、京には食糧があり、寛正の飢饉(1461)では、窮民に対して炊き出しを行う余力すら生まれていた」
飢饉や災害による〈被災者〉という概念が史上初めて定義されたのは、江戸幕府八代の吉宗時代のこと。
「幕府は救済対象を厳格に線引きして御救米(おすくいまい)を支給し、日常的に存在する『困窮人』は対象から外しました」
だが京都の現場役人は窮状を「黙止(もくし)」できず、困窮人にも給付する道を開いた。
「現場の判断の重要性ですね。良心に基づく行動より、忖度する方が報われる空気が蔓延した21世紀日本とつい比べてしまいます。現代の我々が常にぶつかる問題にリンクした瞬間、それが歴史の面白さです。書き残された字面の背後に、どれだけ豊かな想像力を持ちうるか、だと思います」
ひがしじままこと/1967年、大阪府生まれ。専門は日本中世史・社会史。東京大学文学部卒業、同大大学院博士課程修了。現在、立命館大学教授。著書に『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』『自由にしてケシカラン人々の世紀』『〈つながり〉の精神史』、『日本の起源』(與那覇潤氏との共著)など。