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「奥さんなら1時間も前に帰りました」空き地に落ちていた女物の下駄

 ゑん子は午後5時ごろ、(外出先から)帰宅して夕食を終え、台所その他の用事を済ませた後、8時ごろ、1人でそれほど遠くない同所57、「森山湯」・森山庄一郎方へ入浴に出かけた。しかし、普段30分程度で帰るのが1時間を過ぎても帰らないので、同居している叔母(57)は疑いを抱き始め、どうしようかと思案。恭氏の実弟の早稲田大学生(20)を「森山湯」にやって問い合わせさせたが「奥さんなら1時間も前に帰りました」という返事。夫も初めて不審の念を起こした。

 

 ここでまず付近の知り合い方へ問い合わせたが要領を得ないため、近くの駐在所に届け出る一方、出入りの車宿(人力車業者)の数人を集めて「森山湯」の周辺を捜索させた。夫の見込みで空き家を探したが、何も見つからなかった。ところが、「森山湯」と道を隔てて斜め前にある空き地に女物の下駄の片方が落ちていたことから、空き地内に入ると、東側の隅にゑん子の遺体が横たわっていた。

 東朝の記事は現場の模様を詳しく記述。巡査の提灯に照らし出された光景をこう描く。

 むしろ2枚の上に無残な最期を遂げたゑん子の周囲には下駄の片足、せっけん箱、ぬか袋、練りおしろいの小瓶などが散乱していた。ゑん子はモスリン(ウール)の綿入れに伊勢崎銘仙(群馬県・伊勢崎特産の普段着用絹織物)の羽織。湯帰りなので足袋は履かず、頭を丸まげ(既婚女性が結う日本髪)に結い、濃い化粧をしていた。左目の下に糸のようなすり傷と、右足のすねに細かい傷があるだけだったが、犯人は口にぬれ手ぬぐいを押し込み、鼻をふさいで窒息させ、別に手で絞殺したような形跡があった。

小柄で色白、黒目がちのぱっちりとした目…「いまは人目にも分かる妊娠5カ月だった」

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 遺体は東京帝大(現東大)法医学教室で解剖されたが、死因が窒息で、暴行を受けていることは確実と記事は指摘。被害者の家族関係や本人の経歴などについても触れている。

 夫と夫の伯母、弟の4人暮らし。日頃極めて平穏で言い争い一つしないということからみれば、家庭内に原因があるとも思われず、必ず他になければならない。夫・恭は自宅を訪れた記者に「いくら当人が慎んでいても、外界から受ける迫害は仕方ありません。誠に残念でございます」と言い、涙をのんでそっぽを向いた。記者ももらい泣きして後方を見れば、床の間にはゑん子が出産の用意にもと新しく仕立てた産着が4~5枚積み重ねてあった。夫は低い声で「妻はよほど抵抗したようです。全くかわいそうでなりません」と語った。

 

 付近の人の話では、被害者は非常におとなしい性格で、人に恨みを受けるようなことはないという。牛込箪笥町(現新宿区)が原籍で現在は埼玉県に住む笠原三平の長女で、家庭の事情から親類の家で育ったが、7~8歳のころからその家の夫人から琴を習い、15歳で名取に。いまの夫と結婚したのは昨年3月23日。やや小柄だが色白く、黒目がちの目はぱっちりとして、近所でも美人の聞こえが高かった。昨年11月、子どもを宿し、いまは人目にも分かる妊娠5カ月だった。