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「新宿区史」(1955年)によれば、明治初年「大久保界隈は抜弁天(厳島神社=現新宿区余丁町)を除けば大して人家もなく」という状態だったが、「日露戦争前後からは市街電車の発達に促されて増大していく人口は大久保、戸塚辺に吸収され、都市と郊外との接触地帯を次第に西へ進めたのであった」。

 同書に掲載された1922年の東京市統計年表によれば、事件が発生した1908年の大久保村の現住人口は前年1907年の4943人から9581人にほぼ倍増。そうした郊外居住を始めた新住民の多くは役人やサラリーマンら中流の給与生活者で、幸田家もその一員だった。

 ほかにも、住宅建築に携わる土木・建設作業員が大挙して近辺に居住。近くの早稲田大に通う学生らの下宿もあるなど、実際の人口はさらに膨張し、それに伴って治安の悪化が問題になっていた。

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手当たり次第に不審者連行

 捜査の重点について新聞はそろって書き立てた。

「その筋の鑑定においては、堕落学生あるいは土工の所業とにらみ、元来大久保村は不良学生の巣窟とも称すべきほど常に多く徘徊しているという」(3月24日発行25日付報知夕刊)、「7名の嫌疑者を拘引」(同日付都新聞)

「嫌疑者は既に5~6名に及んでいるが、そのうち24日午後7時に拘引した22歳と明治大聴講生の2人は証拠不十分で午前10時ごろ放免された。その他の人夫3名も本件には関係がない模様だという」(25日付東朝朝刊)

 ……と、いわば手当たり次第に不審者を連行して取り調べたようだ。

 25日付國民朝刊は「惡(悪)書生乎(か)知合乎」の見出しで、事件の主任である森田警部の見方として「犯罪者は無論無頼の土方、悪書生の類だろう。空き地にひそんで被害者の湯帰りを待ち受け、現場の入り口を通り過ぎるのを見て後ろからやにわに喉を締めつけ、空き地に連れ込んだ」と記述。

 そのうえで「記者の見るところによれば、犯人はあるいは被害者の知り合いではないだろうか」との疑いを述べている。現場の状況から犯行が大胆すぎるとし、空き地の前で被害者を口説き、無理に引き入れたなどと推理。

 また同じ日付の萬朝報は「大久保住民を安堵せしめよ」として、女性が襲われたりのぞき見された最近の事件を列挙。「一刻も早くこの悪漢を捕まえ、住民の安堵を図るよう切望にたえない」と警察に注文をつけた。

新聞には霊術師と歴史家が「犯人は悪漢でない」「いや悪漢だ」と…

 以後も各紙は、「犯人」の推理と「嫌疑者」の連行の報道を競った。

「以前から大久保村を騒がせていた痴漢はかすりの羽織を着ていた」と書いたのは3月26日付萬朝報。