成徳の選手は、卒業して伸びる、選手生命が長いと言われる。
女子バレーに連綿と続いてきた長時間練習や体罰から距離を置き、選手の自主性を尊重し、トレーニングに力を入れる成徳は、高校バレー界の異端児だった。ただ、小川も早大を卒業し、1981年に監督になった当初は「勝つために練習は長く、厳しくやるもの」という考え方だった。
「選手を束縛して、俺の言うことだけ聞け、と思っていたし、うまく行かなければ手を上げたこともあります。周りの方々から『厳しくしなければ女子は勝てない』と言われるのを鵜呑みにしていたんです。強くするにはストイックに、それこそバレーボール以外の時間は削らなければダメだと思っていたので、自分の服装も常にジャージで、好きな映画も一切見ない。そういう姿勢が選手を追い込んでいることに、気づきもしませんでした」
「選手は従うだけで、可能性を消していたんです」
30代半ばを過ぎた頃、併設の中学が生徒募集を再開。小中学生の頃に全国大会を経験した有望な選手たちが成徳に入ってくるようになった。
この頃、小川は体罰と訣別する。練習が近づくと、暗い表情になっていく選手たちを見て、疑問を感じ始めたのだ。そして、2000年、超高校級の大山と荒木がそろって入学してきた。
「衝撃的に嫌でしたね。だって、これだけの逸材をダメにするわけにはいかない。手足を縛られたような状態でしたし、とにかく早く卒業してくれ、と思っていました」(小川)
初心者ならば「厳しく、長く」の練習も無駄ではないが、高身長で体のできてない選手に強度を上げすぎればケガにつながる。ウェイトトレーニングで筋力をつけ、ボール練習も適性を見極めながら、最低でも週に1日は練習を休みにした。選手を管理して、勝利を最優先するチームとはまさに真逆のスタイルは、当然反発も買う。しかし、結果的には春高、インターハイ、国体と三冠を成し遂げる。そこから本格的に自主性への舵が切られた。
「自分の駒のように選手を動かして、その通り行けば嬉しいです。私もそういう指導者に憧れていました。でも、むしろ私が『こうしなさい』と言ったがために、選手のプレーがうまく行かず、試合に負ける。監督の言葉は絶対的だから、と選手は従うだけで、可能性を消していたんです」
今、小川はほとんど選手に指示をしない。何もしないか、あるいはただ、問いかける、のみだ。