店主が語った「謎の答え」
でも、なぜ昔と印象が違うのだろう? しかも前述したとおり、ご主人も奥様も、あのころ荻窪にいたおふたりだとは思えない。だが、お客さんが引けたタイミングを見計らってお話を伺ってみたら、すべての疑問が解けた。結論からいえばここの店主の佐藤良平さん(71歳)は、荻窪の漢珍亭を基点として修業を積んだ末、この地に店を開いた方だったのだ。
「出身は茨城の大子町袋田です。昔はほら、集団就職ってあったんですね。昭和41年あたりはありましたよ。ほとんどの人が高校とか大学とか行かないで、中卒で。それで、社長が迎えにきてくれたんだよね。東京はすごいところだった」
小さな町で育った15歳にとって、高度経済成長期の東京は驚くべき場所だったようだ。
「24時間人がいるわけだから。びっくりしますよ、とにかくね。東京に来てからはすぐ、荻窪の漢珍亭に入って。南口のほうの店です。(当時は)漢珍亭も、6軒か7軒かあったから。荻窪も、北と南にあったんですよ」
知られざる「漢珍亭」の歴史
それは初耳だ。南口の店は、環状八号線に近い川南のあたりにあったらしい。ともあれ現場にいた人からみて、当時の漢珍亭はどんな感じだったのだろう?
「漢珍亭は、雰囲気はもう最高じゃない? ほんとの駅前にありましたからね。私は南口で働いていましたから、北口の本店にはたまに食べに行ったりする程度だったんですけど。当時はね、本店が24時間営業で、私のところ(南口)は16時間(笑)。まあ、考えられないけどね、いまじゃ。朝は9時から入って、12時ごろまで。びっくりしましたよ。その当時でも深夜12時過ぎても客が入ってきたからね。あとは飲み屋街の人がけっこう来てくれたりしてましたよ」
3畳一間の寮で寝泊まりし、朝起きたら即仕込みをして、ずっと働き続ける毎日。15歳といえば遊びたい盛りだが、遊ぶ時間などなさそうだ。
「遊ぶ暇はなかったけど、貯まりました(笑)。でも安かったからね、当時はね」
田無の新店へ異動を命じられたのは、荻窪で1年ほど働いたのちのことだった。
「新しいお店を出すんだけど、手がないからといって、『良ちゃん、田無のほうへ行ってくれ』ってさ。それで移ったら、『荻窪のほうはもう閉めちゃうから』って。(荻窪北口の)本店が閉まったのは平成13年なんだけど。南のほうは、俺が田無へ行って1年後にはもう閉店ですよ。短かったですね」