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 翌日もAさんの行きつ戻りつの彷徨は続き、その途中で崖から滑落してしまう。結果的にこの滑落がAさんの運命を決めてしまった。Aさんのメモにはこうある。

〈下を見ると、直接下りる坂が見えました。確認しようと取っ手につかまりながらのぞいたら、急に足が滑り、手の握力も切れ、下に落ちた次第です〉

 事故現場となったのは高さ10メートル以上の岩場である。Aさんはこの滑落により自力での行動が不可能なケガを負ってしまった可能性が高い。そうでなくとも、現場は沢の源頭部(*谷の最上流、流れの源になっている場所)で、周囲を岩に囲まれており、脱出は困難を極めたはずだ。

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胴体が見つからなかった

 その場所でAさんが迎えた結末はあまりに酷いものだった。羽根田はこう記している。

〈男性はその場所で少なくとも二日間は生きていた。その間に手帳に記録を残したのだろう。

 どの程度のケガを負っていたのか、腰の骨が折れていたのかどうかは、胴体が見つからなかったのでわからない。残っていたのは頭蓋骨のみだった。そのほかの所持品は、遺体の周囲にすべて残されていた。ヘリコプターに発見されやすいようにと考えたのだろう、所持品は広範囲に置かれていて、服やタオルは広げられていたという。

 こうした状況からすると、男性が息を引きとったあと、胴体はクマに食べられてしまったようである〉(前掲書)

登山届を出していれば

 もしAさんが2日間生きていたのだとすれば、登山届を出していれば、あるいは家族にどの山に登るかさえ伝えていれば、命を落とさずにすんでいたかもしれない。

「さんざん言われていることですが、とにかく山へ行くときは誰かに行き先を伝えておく。たとえビバークの準備を万全にしていっても、万が一のときに探してもらえなければ意味がないと思います。日帰りでも、ハイキングコースのような低山であっても、山が山である以上、基本的にリスクがたくさんある場所なんだということを認識してほしいですね。そういう心構えがないまま山に登ると、事故が起きるのは必然といってもいいかもしれません」

登山届の提出をうながすポスト ©羽根田治

 山岳安全対策ネットワーク協議会によると、2021年に起きた山岳遭難のうち、事前に登山届が出されていたのは、3割ほどにとどまるという。残りの7割は登山届を出さぬまま遭難してしまったことになる。油断が遭難を招く――そのことは数字からも裏付けられているのだ。

(文中敬称略)

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