二度と帰ってくることはなかった
かといって「あなた、山に行くと命はありませんよ」と言うわけにもいかない。それでもその救助隊員は、「二重に見える人」には「ちょっと計画に無理がありますよ」「顔色がすぐれないようですよ」などと声をかけて何とか思いとどまってもらおうとしたが、そういう人たちはみんながみんな「いや、大丈夫です」と言って出発していった。そしてみんな二度と帰ってくることはなかったのである。
ここから羽根田の話は意外な方向に展開していく。
「……でもそういうことはあってもおかしくないので、信じていないわけではないです。実際に自分では見てないけど、自分がおかしくなっているのを見られたことはあるので」
それはカメラマンと2人、早春の剱岳に登ったときのこと。一日の行動を終え、テントを張り、食事をとって2人とも眠りについた。すると夜中、カメラマンは何かの気配に気付いて目が覚めた。見ると横で寝ていたはずの羽根田が上半身を起こして、何かをムシャムシャ食べている。彼は「こいつ、ひそかに何かおいしいものを持ってきて、夜中に1人で食べてやがる」と半ば呆れながら、暗闇に目を凝らす。すると気付いた。羽根田は確かに横になって寝ている。えっ、じゃあ身を起こしているのは――。
「彼によると、寝ている僕の上に女の人が正座して座りながら、何か食べていたというんですね」
カメラマンは恐怖のあまり、その場で羽根田に声をかけることもできず、寝袋に潜り込みひたすら朝が来るのを待ったという。
「自分はもちろんそんなの覚えてないし、とくにその後、何か山でヘンなことが起こるということもなかったんで。未だに意味がわからないんですけども」
当の羽根田はあっけらかんとしたものだが、この原稿を書きながら私は今も鳥肌が立っている。
「山の怪異」も「山の神秘」も結局は同じことの裏表なのかもしれない。人智を超えているからこそ、人は山に惹きつけられるのだろう。
(文中敬称略)
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