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人肉を求めて山を下った加害熊が谷崎シャウを襲った可能性も

「大正三年〔筆者註:四年の間違い〕、孫を背負って、きのこ取りにいった母が熊を発見した。さっそくその知らせで、田中善八ら数人のハンターが、ま新しいふんをたよりに捜すうち、突如現われた。発砲したがあわてていたので命中しない。私の父は、まさかりを持ちだしてウロウロするばかり。熊は雨竜川を渡って、大鳳で婆さんを殺し、かばった息子に重傷を負わした。(長尾小弥太)」――『雨竜町史』昭和44年

 現場は雨竜町南部の戸田農場付近と思われる。とすれば三毛別事件の加害熊は、増毛方面から北上してきた可能性がある。

 そこで増毛方面で、それらしい事件がなかったか調べてみると、次の事件を見つけた。

「雨竜郡深川村妹背牛、五井祐吉方の小作人阿部吉五郎(四九)は去月一日雨竜村の人跡未踏なる山奥へ人の噂を耳にして金銅鉄などの埋まれし宝庫探検の目的とかにて鋸ロッブ鉈類を携え、家を出で、同夜は雨竜村字国領の知人重田友二郎方に一泊、翌朝単独探検の危険を止むる友二郎の忠告をもきかず山深く入り込みしが爾来帰宅せず、(中略)あるいはなれぬ未開の山林の雪路に迷い熊穴に陥り餓死せしにあらざるかとの噂なり(雨竜通信)」――『北海タイムス』大正3年6月10日

 山中に餓死した男を喰らい、肉食化した加害熊が、人肉を求めて山を下り、雨竜で谷崎シャウを襲ったという可能性も考えられる。

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前年に小学生が喰い殺されていた

 前出の深川での主婦殺害事件に関連して、実はもうひとつ凄惨な事件が起きている。それは隣の北竜村で大正3年9月に発生した。

「十九日、雨竜郡北竜村字ボウ野沼田小学校生徒、明地勇(十三)および山村米蔵(十三)の二人、午前七時半頃、登校の途中、突然、熊笹の中より一頭の巨熊が現れ、悲鳴をあげる勇を一撃のもとに打ち倒し、爪にひっかけたまま十間ばかりも引きずって勇の臓腑を引き出してこれを喰い、再び熊笹の中に姿を没した(後略)」――『小樽新聞』大正3年9月21日より要約

 登校中の小学生が喰い殺されるという衝撃的な事件は、地元民の記憶に焼きついたらしく、いくつかの回顧録に散見される。

「一同が近づいてみると衣服はズタズタに引き裂かれ、内臓は余すところなく食われてしまい、見るも無残な姿に変わり果てていた。明地君の父親は涙をボロボロ流しながら、自分の着ていた印半纏を脱いでその上にかけ、部落民の用意した担架に乗せて笹藪をかき分け家に向かったのである」――『沼田町史』

 事件同日の午後3時頃、50貫以上もある大熊が仕止められた。新聞も3歳の加害熊が銃殺されたと報じている。

 しかし、このヒグマは加害熊ではなかったようである。というのは7ヵ月後の新聞に、「児童を喰殺した熊か」の見出しで、加害熊と覚しき別の熊が目撃された記事が掲載されているのである。