三毛別事件で食害されたのは女性と男児のみ
そこで現地調査を重ね、生き残った村人や関わりのある人物から丹念に取材して、事件の全容を初めて正確に再現したのが、木村盛武による『慟哭の谷』(共同文化社、平成6年)である。この作品に先立ち、林務官であった木村は林業誌『寒帯林』112、113号(旭川営林局、昭和39年)の2回にわたり、合計48ページもの詳細なレポートを発表しており、苫前町郷土資料館発行の冊子『獣害史最大の惨劇 苫前羆事件』(昭和62年)にまとめている。
この木村の仕事により、三毛別事件の顛末は、ほぼ完全に明らかになったと言えるだろう。
しかしそれでも大きな疑問が残されている。
「加害熊に、前科はあったのか? なかったのか?」
前出『慟哭の谷』中に、古丹別市街に引き出された加害熊の遺骸を見物に来た人々から、戦慄の証言が次々と繰り出されるくだりがある。
「雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、『このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ』と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、『旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる』と言った。山本兵吉は、『このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない』と述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆が出て来た」――前掲『慟哭の谷』より要約
いずれの証言でも「女が喰われた」ことが共通している事実に注目である。三毛別事件で食害されたのは女性と男児に限られていたのだ。
別の事件では男性が獲殺されていた
そこで手元の「人喰い熊事件データベース」から、三毛別事件以前の新聞記事を辿ってみた。
まず山本兵吉(加害熊を射殺した功労者)の、「天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない」という証言については、それらしい記事は発見できなかった。ひとつ見つかったのは以下の事件である。
「去る四日、天塩郡沙流村豊富部落共有地成田牧場に一頭の巨熊現れ、放牧中の小馬を追い回して咬み殺せる上、折柄同所を通行せる幌延役場小使須田某(三十五)にも飛びかかり全身十数ヶ所を爪にて引っ掻き即死せしめ、死体の上に同人の風呂敷包みを載せて逃げ去らんとするところを同牧場内の三上仙太郎他二名のものこれを発見し(中略)一斉射撃をなして遂に巨熊を斃したり」――『小樽新聞』大正2年11月17日
この事件は、三毛別事件の2年前のことであり、犠牲者が男性、かつ獲殺されているので、山本の証言とは大きく異なる。
次に「あるマタギ」による、「旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」という証言である。これについては旭川よりさらに南の南富良野村で起こった以下の事件を指しているのではないかと思われる。