すべての事件を引き起こした凶悪熊が別に存在したのか
大正4年5月、雨竜郡北竜村の恵比島沢へ砂金鉱区調査に向かった4名が、巨熊1頭が仔熊2頭を引き連れているのに出会し、手負いのまま逃がしたが、仔熊は生け捕った。この親熊が、「昨年十月〔筆者註:九月の間違い〕同地付近にて小学生を喰い殺し、かつ数年来その地方を荒らしたる熊なるべく(後略)」(『小樽新聞』大正4年5月5日より要約)とある。
ヒグマによる殺傷事件が起きると、必ず熊狩りが行われたが、獲殺されたヒグマが加害熊であったかどうかは疑わしいケースもあった。加害熊かどうかに限らず、とりあえず一頭討ち取ることで、住民を安心させる意味もあったともいわれる。
道東某猟友会のベテラン猟師によれば、「熊の胃袋や糞から被害者の一部や衣服の切れ端などが見つからない限り、断定は難しいのではないか」という。
このとき手負いで逃がした母熊が、明地少年を喰い殺し、谷崎シャウを襲った加害熊だったのだろうか(その場合、三毛別事件を引き起こしたヒグマがオスであるため別個体ということになる)。あるいはまた、三毛別事件を含め、すべての事件を引き起こした恐るべき凶悪熊が別に存在したのか。
筆者は後者の可能性を考えたい。
その理由はいくつかあるが、ひとつは谷崎シャウが襲われた状況から、加害熊の目的が当初から「捕食」であったことが明らかであり、同事件前に、すでに「人間の味」を知っていた可能性が高いことである。
もうひとつは、ヒグマの習性として挙げられる、「以前に喰ったものをしつこく好む」という嗜好性である。
思い起こしていただきたい。三毛別事件で実際に食害に遭ったのは、女性と男児に限られるのである。
加害熊の目当ては…
以下、『エゾヒグマ百科』を主な参考に、加害熊が襲った被害者を、仮説も含めて襲われた順に列記してみよう。
大正3年北竜村
明地勇(13) 男児 死亡 食害
大正4年深川村
谷崎シャウ(42) 女性 死亡 食害
谷崎武夫(18) 男性 重傷
大正4年苫前村太田家
蓮見幹雄(6) 男児 死亡
阿部マユ(34) 女性 死亡 食害
大正4年苫前村明景家
明景梅吉(当時1) 男児 死亡(3年後)
明景ヤヨ(34) 女性 重傷
長松要吉(59) 男性 重傷
明景金蔵(3) 男児 死亡 食害
斉藤春義(3) 男児 死亡 食害
斉藤巌(6) 男児 死亡 食害
斉藤タケ(34) 女性 死亡 食害
胎児(0) 不明 死亡
一見して明らかな通り、食害されたのは男児と成人女性に限られている。
ここで襲われた男性について見てみよう。
まず三毛別事件の第一発見者である太田家の雇い人、長松要吉は、女性、子供とともに明景家に避難して遭難したが、彼に対する加害熊の行動が明らかに「排除」が目的であり、一撃を加えたのみで深追いしていないことに注目したい。加害熊は老人を食物とは見なさなかったのである。
もう1人の男性、谷崎武夫はどうだろう。彼は年齢的に成人と男児の中間とも言える。そこで筆者はこう考える。