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 銀座の名店「姫」のナンバー1という看板をひっさげ、順子は1966年に24歳の若さで独立、銀座6丁目に「クラブ順子」を開店する。

「ニチガクの受付として働いていた当時、私の月給は8000円でした。『姫』で実績を積むと、洋子ママがお給料を小刻みに増額してくれて、2年後には日給で1万2000円になりました。24歳で独立し自分のお店を始めることになったときも、洋子ママは惜しげもなく常連のお客さんに“順子ちゃんのお店、行ってあげてね”と宣伝してくださいました。いくら私のことを可愛がっていたとはいえ、自分の店のお客さんを紹介するなど、簡単なようでなかなかできないことです」

クラブ順子は2020年に惜しまれながら閉店した

「どんな高価な衣類や宝石より大切なもの――それは…」

 順子ママの手元には700通を超える洋子ママからの手紙が残っている。失恋したとき、家を買うとき、結婚を考えたとき――いつも最初に相談する相手は洋子ママだった。

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「独立してから何十年も、私は大晦日の夜、日付が変わる深夜12時ピッタリに洋子ママの自宅に電話をかけ、新年の挨拶をするのがお決まりのセレモニーでした。誰よりも早く洋子ママと話すことで、また新しい1年が始まっていくことを実感するのです」

長嶋茂雄、星野仙一らと親しげに話す山口洋子

 1985年、『演歌の虫』『老梅』で直木賞を受賞した山口洋子は『姫』の経営から離れ、文化人としての活動に軸足を置くようになる。『姫』時代から球界と関係の深かった山口は、デイリースポーツで軽妙なコラムを連載し、しばしばグラウンドにも姿を見せ、往年のスター選手たちと談笑した。

「私にとってどんな高価な衣類や宝石より大切なもの――それはクラブ順子が30周年を迎えたとき、洋子ママからいただいた言葉です」

順子ママが山口洋子からもらったメッセージ

 1996年、帝国ホテルで開かれた「クラブ順子30周年記念パーティー」。作曲家の平尾昌晃、作詞家の星野哲郎、羽田孜元総理、写真家の秋山庄太郎、俳優・神田正輝、ヴァイオリニストの佐藤陽子らが集まったその会場で、山口洋子が順子ママにメッセージを送った。

 <この商売はいかに長く頑張ろうと、公的な誉め言葉も拍手もない、一面とても寂しい仕事です。だからこそ、「順子ちゃん、よくやりましたね」といまここで晴れ晴れと誉めてあげたい。>