正直に言えば、今でも彼女から解放されたい思いはある
――『妻はサバイバー』を、「夫婦の愛の物語」として読んだという方も多いです。
永田 「愛」という言葉は過分な、大変ありがたい言葉だと感じています。でも、それはそれとして、一つ私が考えるのは、「介護」と「愛」をリンクさせた時の危うさです。じゃあ、介護がうまくいかなかった人は、家族への愛が足りないのか?ということにもなります。
むしろ私が伝えたかったのは、そこに愛があろうがなかろうが、病を持つ人のサポートができる社会でなければいけない、ということです。
――「愛」の問題にすると、家族の負担がどこまでも増えてしまいそうです。
永田 本当は、家族に重荷を全部背負わせるのではなく、できるだけ社会全体が引き受けていかないといけないと思います。
障害のあるお子さんを家で何十年も監禁して死なせてしまったり、介護殺人もあとを絶ちません。決して監禁や殺害を認めるつもりはありませんが、ある意味それは、社会が間接的な加害者になってしまっているんじゃないか、ということは考えたほうがいいと思うんです。
――永田さんも著書の中で、妻の死を願ったときの気持ちを赤裸々に書かれていました。
永田 誤解を恐れずに言うと、犯行に及んでしまった家族の気持ちはとてもよく分かります。どこにも頼れず、家族の中で抱え込むしかなくなると、本当に目の前が真っ暗になって、本人がモンスターにしか見えなくなってしまうのです。
さんざん妻に迷惑をかけられてきたという思いはあるので、正直に言えば、今でも彼女から解放されたい思いはあります。妻の症状がひどかった時期は、彼女の死を願う気持ちはもっと強かった。一方で、笑顔を取り戻した今の彼女を見ていると、「生きてくれてよかった」と心から思いますけどね。
ですから、“妻を支え続けた、愛に満ち溢れた素晴らしい夫”なんて評価は私の実態とはまったくかけ離れていると思いますし、他の依存症の家族の方々を見ても、「愛」の一言ではすまされない複雑な感情をお持ちの方が多いですから、ちょっと違和感がありますね。