1ページ目から読む
2/4ページ目

 20年以上も同居していたにもかかわらず、私や兄は父親と会話したことがほとんどありません。時折、気まずさに耐えきれず勇気を出して話しかけてみることもありました。しかし父親はいつもぼうっとテレビを眺めていて、聞いているのかいないのか、何を言ってもたまに「うん」と答えるばかりでこちらを一瞥もしないので、それ以上会話が続くことはありませんでした。

 母親は、そんな父に振り回されていつも疲弊していたように思います。貯金が底をつくたびに母方の祖母に頭を下げてお金を借りていましたが、それもできなくなった頃、母親は次第に、私が知っている母親ではなくなっていきました。

著者の吉川ばんび氏(ワタナベエンターテインメント公式HPより)

精神疾患を発症しても病院には行かず

 私が小学校の高学年にあがるくらいだったか、母親はいつしか朝になっても布団から出てこず「もう死にたい」と泣きながらよく私に訴えかけるようになりました。突然どこかへ家出をして連絡がつかなくなった母を探すため、真夜中の街を1人きりで泣きながら走り回ったこともあります。

ADVERTISEMENT

 おそらく何らかの精神疾患を発症していたであろう母は、外出先で発作のようなものを起こして動けなくなることがよくありました。迎えに行くのは決まって私の役目でしたが、病院を受診することをすすめても「お金がないので病院に行きたくない」というばかりで、症状が改善することはありませんでした。

 私が幼い頃の母親は、基本的に明るくて優しい女性だったように記憶しています。母は兄を出産するまで、理容師として働いていました。しかし、父が育児に無関心で一切かかわろうとしなかったため、育児と仕事、家事の両立が難しく、勤めていた理容室を辞めざるを得なくなったのです。

母親のことを恐れていた幼少期

 年子である兄と私を1人で見なければならないストレスは相当なものだったようで、母はどんどん自分をコントロールできなくなりました。 人の赤ん坊の泣き声に耐えきれず、なんとか泣き止ませようと私たちの顔を毛布で覆ってしまったこともあったといいます。

 そんな日々が続いて余裕がなかったためか、母親は感情にまかせて激しく怒ることが多かったように思います。コップに入ったお茶をこぼしてしまったり、母親の機嫌を損ねてしまったりすると、彼女はよく私たちを叩きました。