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肝心の勝負どころでベンチから消えてしまう

 一方で中西にとって誤算だったのは、「急遽阪神の監督を務めなければならなくなった」ことである。1978年、球団創設から初の最下位に転落した際、阪神再建を期待してドン・ブレイザーを監督に招聘した。だが1980年、当時の大型ルーキーとして期待されていた岡田彰布の起用方法を巡って、フロントと対立。堪忍袋の緒が切れたブレイザーは自ら監督辞任を申し入れ、一軍打撃コーチだったはずの中西が急遽代理監督に昇格。翌年は正式に阪神の一軍監督となった。

中西太さん ©文藝春秋

 このときのことを江本はこう回想する。

「それまで大好きだった打撃コーチではなく、どちらかというと苦手だった監督に昇格したことで、どことなく暗い表情が増えていったような気がしています」

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 中西が指揮を執っていたときに驚いたのは、味方がチャンスやピンチの場面を迎えるとその場から離れてしまうことだった。日本ハムで指揮を執っていた2年間は最下位だったが、当時主力として活躍していた張本勲は、自身が一打逆転の場面で打席に立った際、マネージャーを通じて戦況を確認していたという話を聞いて、「戦う気になれなかった」と周囲に語っていた。

“球界のご意見番”張本勲氏 Ⓒ文藝春秋

 また江本自身も現役投手として緊張の糸が切れる出来事があった。入団2年目から続けていた2ケタ勝利が、10年目となる80年で途切れたことである。

「僕にとっては励みにしていた記録だったんですが、1980年に8勝(15敗)に終わってパタッと途切れたとき、『もう来年は好きにやらせてもらおう』と半ば気持ちが切れてしまったんです。もちろん僕自身がもう一度気持ちを奮い立たせて『よっしゃ、もうひと花咲かせたる』と思って練習に打ち込めばよかったのですが、なかなかそうはいかなかった。あの頃の僕は、気持ちを立て直すことの難しさを痛感した時期だったことは間違いないんです」

 そうして翌81年シーズン、「あの騒動」が勃発した。