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衝動的に口走った「ベンチがアホ騒動」の内幕

 今から42年前の1981年8月26日、甲子園球場の阪神対ヤクルト戦でのこと。この日は甲子園名物の浜風はまったく吹く様子がなくただただ蒸し暑く、陽が落ちてからも一向に涼しくならなかった。

 当時の阪神は4位。ヤクルトは2位だったものの、首位の巨人とはすでに10ゲーム以上離されていたために、優勝はすでに射程圏外となっていた。スタンドには2万4000人の観衆が集まるなか、江本は先発としてマウンドに上がっていた。

 試合は4対1でリードしていた終盤の8回、ヤクルトに1点をとられてなおも2アウト二、三塁という場面を迎え、打席に水谷新太郎が立っていた。捕手を含めた内野手全員がマウンドに集まってベンチを見ると敬遠のサインが出る……かと思いきや、監督である中西の姿がなかった。

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 中西は肝心の勝負どころになると、ベンチから消えてしまうという離れ業を持っていたことで知られていた。江本は「えっ、ここでいないの?」と内心驚いていた。そこでバッテリー間で話し合った結果、水谷とは「勝負」をすることを選択。結果はライト前のタイムリー安打で2人の走者がホームに返って同点になってしまった。

 ここで江本は降板し、リリーフの池内豊に託したのだが、問題はこの後だった。

 ベンチ裏で江本は2~3人の記者の前で、「あんなとこで何しとんじゃ」「バカヤロー」などと怒鳴っていた。ただ、江本は誰かに対して怒っていたわけではなく、抑えなければいけない場面で打たれてしまった自分自身に腹を立てていた末に口走ったセリフだった。

当時の騒動を伝えるスポーツ新聞

 ところが翌日のスポーツ紙を見ると、なぜか「ベンチがアホだから野球ができん」になっていた。「もう40年以上も前の話だからどうでもいいこと」と江本は話しているが、あらためて当時を振り返ると、「頭に血が上っていたから、冷静に話をすること自体、不可能だったんですよ」と言う。

 結局、江本はこの言葉によって世間を騒がせ、球団首脳を侮辱したという理由からユニフォームを脱がざるを得ない状況となった。当時の年齢は34歳、プロ入りして11年目のことである。

 そして中西は、阪神を3位に導いたものの、この年限りで阪神のユニフォームを脱いだ。江本はこう回想する。

江本さん ©文藝春秋

「あの騒動がきっかけで引退となりましたけれども、僕自身はこの年のシーズンを通じて完投ができなくなるわ、思い通りのボールが投げられなくなるわと、体力の限界を感じてきていたんです。右打者の外角低めにズバッと投げたストレートを『ボール』と幾度となく審判に判定されるようになって、正直きついなと思うようになっていた。

 そこにきて例の騒動が起きたことで、まだまだ頑張ろうという緊張の糸もプッツリ切れてしまい、『もう終わりやな』と覚悟を決めた。どの道この年限りで引退していたと思うのですが、例の騒動でそれが少し早まったというのが、僕の正直な気持ちです」