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「見てみい。あれがゼニのとれる打球だ」

 引退後、江本は野球解説者として活路を見出し、82年に出版した『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(KKベストセラーズ)は400万部を超える大ベストセラーとなった。翌83年5月には谷崎潤一郎の小説『細雪』が映画化され、吉永小百合の婚約者の役として話題となった。その後もプロ野球解説の仕事の傍ら、テレビのバラエティー番組の司会なども務め、まさに順風満帆の第二の人生となった。 

ベストセラーとなった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』

 一方の中西は、江本が第二の人生を順調に歩み始めた83年からヤクルトの打撃コーチを務めた。江本が野球解説者として試合当日に球場に行って中西の姿を見つけると、江本のほうから歩み寄っていった。江本の姿を見つけた中西は、

「エモ、久しぶりやな。順調そうやないか」

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 そう話していると、若松勉が懸命にティー打撃を行っている。

「ちゃうちゃう、そうやない。もっと重心を落として股関節を回すんだ」

 そんなアドバイスを聞きながら、若松は1球、また1球と打ち込んでいく。「ミスタースワローズ」と言われた彼だったが、36歳になった当時は、調子にやや陰りが見え始めていた頃だった。中西は若松を見ながら江本にこう言った。

「アイツはまだまだ体が動く。しんどいだろうけど、この練習を続けていればあと4年、いや5年は行けるんちゃうか」

 その言葉通り、若松は6年後の42歳まで現役を続けることができた。

「打者を見れば『こうすればよくなる』というのが一目瞭然でわかったと言っていました。同時に『絶対にいじっちゃいけないところも理解しておかなアカン』とも言っていた。それらを把握していたからこそ、いろいろな球団からお声がかかったんだと思います」

 さらに中西の打撃における指導力を評価している人物がもう1人いた。野村克也である。

野村克也氏 ©文藝春秋

 野村が南海にテスト生として入団した1954年、中西はすでに西鉄のスター選手となっていた。野村がレギュラーとして定着した56年以降の西鉄は、中西以外にも豊田泰光、仰木彬、高倉照幸らで「野武士軍団」と言われ、西鉄の黄金期を築いた。

 野村は大阪球場で西鉄と試合をした際、中西が素振りしていたときに一塁側のベンチまで短く、鋭い音で「ブンッ」と振幅音が聞こえてきたときに脅威を感じていた。

 すごいのはそれだけではない。平和台球場での試合で、センター方向に低く鋭いライナーが飛んだ。セカンドを守っていた岡本伊三美が捕球しようとジャンプした打球が、そのままセンターバックスクリーンに突き刺さったのである。当時の南海の監督だった鶴岡一人は、中西の打撃を目にするたびに、「見てみい。あれがゼニのとれる打球だ」と南海の選手たちに言い続けていた。

「ノムさんは中西さんのことを尊敬と羨望のまなざしで見ているところはありました。あの人はよく人のことをあれこれ言ってはボヤくでしょう? それが中西さんにはまったくないんです。事あるごとに『オレにはない才能をいっぱい持っていた』って褒めちぎっていましたからね」