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戦時中には将棋・囲碁慰問団が中国や満州へ

 このハワイ対局が史上初めて海外で行われた公式戦であることは間違いないが、プロ棋士が公務で海外を訪れた記録はこれ以前にも残っている。

 1937年に始まった日中戦争が泥沼化していくにつれ、作家、画家、役者、歌手などの文化芸能関係者が中国各地の日本軍慰問に駆り出されたのだ。棋士も例外ではなく、1939年に初の将棋・囲碁慰問団が中国に派遣された。将棋班の班長が塚田正夫七段(名誉十段)で、加藤治郎五段(名誉九段)、加藤恵三五段(八段)、永沢勝雄四段(八段)、松田茂行二段(のち茂役に改名、九段)らが派遣されている。囲碁班には当時13歳の藤沢秀行名誉棋聖の名前もあった。慰問というのは主に指導対局だったが、現地の兵士にはかなりよろこばれたそうだ。

 最初の慰問団は上海と漢口を訪れ、上海での食事は1日2食。朝昼兼用の昼食はおでんにご飯、夕食はすき焼きとご飯だったと加藤治郎名誉九段が書いている(加藤名誉九段著「昭和のコマおと」より)。これが繰り返されると2、3日でうんざり。おでんはともかく、すき焼きは野菜が少なく、肉は水牛で猛烈に固く味もない。まるで靴の革をかむようだったという。

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 ところが、上海から漢口へ移ったら、豪華な中華料理や久しく口にしなかった酒も出たそうだ。将棋大成会(現在の日本将棋連盟)の顧問を務めていた中島富治氏と現地の軍司令官が親友だった縁によるとのこと。加藤名誉九段はこの慰問について「(上海を流れる)揚子江の雄大な流れを思い出せば、つまらない雑念は吹き飛び、スランプを脱出できると思った」と振り返っている。

 慰問団はのちに2回、1941年と43年に満州へも訪れている。満州へは木村義雄十四世名人も同行し、43年には「満州国将棋大成会」も発足したが、日本の敗戦とともに消滅した。

谷川は「海外旅行は癖になるといわれるが、よくわかった」

 プロ公式戦が初めてヨーロッパで実現したのは、1990年の第3期竜王戦第1局でのこと。ドイツ・フランクフルトで行われた、羽生善治竜王に谷川浩司王位・王座が挑戦したシリーズである。海外対局としては前述のハワイ対局、1985年にアメリカ・ロサンゼルスで行われた棋聖戦五番勝負に続く3度目だ。フランクフルトの見本市で行われるブックフェアで、1990年は日本がテーマだったこともあってのヨーロッパ対局実現となった。さまざまな日本文化がブックフェアに出品され「竜王戦」もその一つだった。