当時のヨーロッパにはオランダ、ベルギー、イギリス、フランスに日本将棋連盟の支部があったが、ドイツにはまだなかった。準備には半年がかりだったそうだ。
この対局が平成の黄金カードである、谷川-羽生戦の、初のタイトル戦だった。この25年後に筆者が黄金カードを観戦した時、谷川は当時を思い返して「(羽生竜王が)緊張していて、駒箱を開ける手が震えていましたね」と語ってくれた。
なお、このドイツ対局は羽生にとって人生で2度目の海外であり、谷川は初の海外だった。「日本に帰りたくなかった。海外旅行は癖になるといわれるが、よくわかった」とは当時の谷川の談話である。
羽生の生涯でも五本の指に入る名局
海外対局をもっとも多く指しているのは羽生善治九段で、12局。その中で、現時点では羽生にとって最後の海外対局となっているのが、2008年の第21期竜王戦七番勝負第1局である。
当時名人の羽生が渡辺明竜王に挑戦したシリーズで、第1局はフランス・パリで行われた。永世竜王を懸けてのシリーズだったといえば、思い出される方も多いだろう。この第1局は羽生の生涯でも五本の指に入る名局ではないかと思う。人生で初めてフランスを訪れ、対局前にはヴェルサイユ宮殿やルーヴル美術館、凱旋門などを見学し、人生観が変わったという渡辺は「人生観だけではなく大局観まで覆された」と脱帽している。
このフランス対局に立会人として訪れたのが、当時の日本将棋連盟会長である米長邦雄永世棋聖で、記録係は米長の弟子である中村太地四段(現八段)だった。現地では対局者も含めて、当然フランス料理を食べる機会が多かったのだが、対局前日の夕食に出された生牡蠣に渡辺、羽生、中村の3人はまったく手を付けなかった。無論、万が一の食当たりを気にしてのこと。「生牡蠣は俺と読売の記者が全部食った。うまかったぞ。3人はもったいないな」とは後年、米長が筆者に教えてくれた話である。
(※注:米長永世棋聖は対局前々日の夜と対局翌日の昼に生牡蠣を注文したが、3人にも生牡蠣が出たのは対局翌日だけで、その時に遠慮して手を付けなかった。前日に対局者に出されたというのは米長永世棋聖の記憶違いです、と当時の関係者からご指摘をいただいたので、追記する)
渡辺の初の海外対局に同行してソウルへ
海外対局は設営、対局する側も大変だが、取材する側も国内と比較するとやはり大変だ。現地の関係者がいる本体組と異なり、土地勘のない異国での取材はやはり独自の緊張感がある。
筆者は1度だけ海外対局を現地で取材する機会があった。2004年の第17期竜王戦第1局で、森内俊之竜王-渡辺明挑戦者のソウル対局である。当時の筆者は将棋雑誌「近代将棋」の編集部におり、渡辺が書いていた自戦記を担当していた。渡辺が初の海外対局に臨むというのに誰も取材に行かないとは何事か、と主張した記憶がある。予算がない貧乏編集部で、多少なりとも取材費をもぎ取ったのか、結局全額自腹で行ったのかは思い出せない。それでも覚えていることをつらつらと書いてみる。