近年のお笑いブームのきっかけとなる芸人であり、現在も第一線で活躍し続けるダウンタウン。そんな二人にも当然ながら不遇の時代はあった。日の目を見始めたのは、デビューから5年ほどが経ち、バラエティ番組『4時ですよ~だ』に出演し始めた頃からだ。
長らく仕事がなかったのに、突然、売れっ子になったダウンタウン……。そんな状況で、浜田雅功氏は収録に現れず、行方不明になる失踪事件を起こしてしまう。
いったいなぜ浜田氏は失踪してしまったのか。ここでは、ダウンタウンを見出した育ての親といわれる大﨑洋氏の著書『居場所。』(サンマーク出版)の一部を抜粋し、関係者しか知らないダウンタウンの意外な一面を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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すべての新聞に記事が出た「2丁目現象」
ダウンタウンのデビュー5年目、1987年のことです。
放送開始時こそ視聴率3%程度と低迷していた『4時ですよ~だ』は、「誰が見るんや?」という大方の予想に反して伸び続け、平均視聴率7%と8%を行ったり来たりした後、夏休みになると10%超え。最高視聴率は14%に届きました。大阪にダウンタウンという圧倒的な熱狂が生まれつつありました。
2丁目劇場(編集部注:1986年から1999年まで心斎橋に存在した吉本興業の常設劇場。ダウンタウン、今田耕司、千原兄弟、ナインティナインらを輩出した)の他の芸人たちにもファンがつき、若い女の子がびっしりと客席を埋めるようになると、今でいうタレントグッズの販売も開始。当時は画期的な試みでした。でもこれ、勝手にやっていたので「キャラクターの権利は会社にある」と、儲けをごっそり吉本本社に吸い上げられてしまったので、僕たちの2丁目劇場は相変わらず貧乏でした……。
夏休みになると劇場近くの戎橋にファンがどっと押し寄せて、警察が出動する騒ぎに。番組がスタートした時の、「高い視聴率は無理でも、せめて戎橋の上に若い女の子たちが集まる“現象”をつくりたい」という僕の密かな願いは、何倍にも膨れ上がって叶ったことになります。「2丁目現象」とすべての新聞に記事が出るほどの大きなうねりになり、大阪で「いつ暴動が起きてもおかしくない場所」と言われました。関西ローカルとはいえ1週間の帯番組ですから、「スポンサー収入だけで、毎日放送の全社員のボーナスが出た!」とささやかれるほどでした。
浜田が行方不明!
そんな順調そのもののある日のこと。浜田くんが突然、いなくなりました。
いつもの集合時間になっても、本番へのカウントダウンが始まっても、劇場に現れないし連絡もない。まだ箱型のものを担ぐような携帯電話しかなく、みんなそれさえ持っていません。自宅の電話も通じないとなったら、完全に行方不明です。