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盛り場の雄「キャバレー」のルーツ

 さてキャバレーとあっさり書いたけれど、いつ生まれたものなのか。

 戦前の「カフエー(カフェー)」に端を発するとも言うし、戦後のRAA(Recreation and Amusement Associationの略称。特殊慰安施設協会)だとも言う。前者は女給さんが酒食を供する飲み屋さんで、後者は、終戦直後、押し寄せる進駐軍兵士たちのための「性の防波堤」として、日本人女性たちによる慰安所を設けた団体。ここには売春施設ばかりでなく、飲み屋部門であるキャバレー部もあり、この団体関連の施設をルーツと見做す場合があるのだ。

RAAがつくったキャバレー「Oasis Of The Ginza」 ©getty

 そうはいっても、今日に続くゴージャス内装のキャバレーの直接の祖先は、やっぱり高度成長期ごろに成立した業態とみたほうが自然かと思う。まずそもそも、どういう歓楽施設をキャバレーというか。

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 いくら豪華なしつらえがあろうと、単にホステスさんと並んで飲むだけの接待飲食店ではクラブとは言えても、キャバレーとはいえなかった。定義は法が決めていた。風営法(かつては風俗営業取締法。現・風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)は、戦後成立以来たびたび改められているが、この国が高度成長していく時期、昭和34年の改正時、いのいちばんに法文に記された風俗営業店が「キヤバレー(キャバレー)」だった。

 さらには、5号まである風俗営業許可も、いのいちばん、「1号営業」の店としてかつて分類されていた。2号営業にあたるクラブなどとは明らかな線引きがあったのだ(2015年に統合)。

 最初に名の挙がる盛り場の雄「キヤバレー」業態としてお上から免状をもらうためには、なにより客とホステスがチークダンスを踊るに十分で、なおかつ生バンドが演奏できるほど広いフロア面積を確保せねばならなかったのだ。

豪華絢爛なグランド・キャバレー「グランドサロン十三」誕生の経緯

 こちら、「グランドサロン十三」の広さよ。

延べ床面積約196坪の広さを持つ
ステージから見た客席。羽ばたく鶴の羽根のごとく曲線を描いて配置されている

 油圧式で前後駆動するステージ、それを見下ろすように吹き抜けのてっぺんには荘厳なる巨大シャンデリア。ぎらぎらと吊り下がる一帯の広がりを包みこむように、羽ばたく鶴の羽根のごとく曲線を描いて配置された客席は、1階だけで全170席、1階と2階を合わせた延べ床面積は約196坪に及ぶ――。

「1969(昭和44)年、私が生まれた年に先代である父が創業しました。先代は大分から、戦後の混乱期に大阪に出て、歓楽街で働いて。『これからは娯楽だ』と思ってこの店を作ったようです。『ワイキキ』『ミス日本』なんてミニサロンを何号店も出していました」

「グランドサロン十三」の創業者・宮田静長(よしなが)はキャバレー、居酒屋、金融、性風俗店も含んで十三界隈を中心に企業グループを形成した(写真提供=グランドサロン十三)
「グランドサロン十三」の創業者・宮田静長(よしなが)は寿司屋の創業を皮切りに事業家として身を起こした(写真提供=グランドサロン十三)
昭和期の十三界隈のようす(写真提供=グランドサロン十三)

 創業者の息子にして現会長の宮田泰三は少々はにかみながら言う。先代・静長(よしなが)は大阪に出て寿司屋の創業を皮切りに事業家として身を起こし、キャバレー、居酒屋、金融、性風俗店も含んで十三界隈を中心に企業グループを形成した。