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「カネが流入した時代だった」豪華すぎるステージでヌードショーも披露…大阪の“グランドキャバレー”が歩んだ激動の道のり

2023/07/09
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 開店の年は「いざなぎ景気」の時期にあたる。実質GDPの平均成長率は10%を超え、消費は促され、盛り場にカネが流入した時代だった。彼の歩いた盛り場は、この国の復興と繁栄と軌を一にしていたはずで、焼け跡が盛り場化していく上昇や矛盾の逸話を直接聞いてみたかったが残念ながら叶わない。

「ええ、令和2年に亡くなりましてね」(泰三)

十三グループが経営していたヤングサロンのひとつ『ワイキキ』(写真提供=グランドサロン十三)
十三グループが経営していたヤングサロンのひとつ『ミス日本』(写真提供=グランドサロン十三)
十三グループが経営していたヤングサロンのひとつ『ミス十三』(写真提供=グランドサロン十三)

 先代は、「グランド」に比して小箱であるミニサロンをいくつも経営していたという。実はグランド・キャバレー、戦後復興期に華々しく登場しながら、世の中が安定しだしたころ、一度退勢へ向かっている。豪華すぎる店からは次第に客足が遠のきはじめたのだった。これを受け、昭和30年代半ばから40年代にかけて、仰々しさを抑えた、大衆キャバレーチェーンが続々登場して復活。ふたたび盛り場の雄へ躍り出ていった。シニア世代なら「ハリウッド」「ロンドン」「ハワイ」などのチェーン名を覚えている人も多いはず。

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開店当時の赤羽ハリウッド(ハリウッドのホームページより)
昭和40年代のキャバレーのようす ©文藝春秋

 運営方式やしつらえをある程度規格化して多店舗展開し、料金を抑えることで庶民の支持を得たのである。

「グランドサロン十三」が豪華絢爛なしつらえを維持できた理由

――でも、「グランドサロン十三」はずいぶん豪華に見えますが?  

 宮田は自信をもって答える。「それは、この店がグループのなかで旗艦店だったからですよ」

 フラッグシップなればこそ贅を凝らし、おかげで今では見かけない意匠が店内各所にちりばめられた。それでももう、創業時の図面や発注書類などは失われ、同じものをふたたび用意することはできない。反して、開業以来すでに約半世紀、老朽化は日々進んでいる。こんなとき、私が日頃取材する昭和の施設だと、創業者も老いてきて、物心両面で限界に達して廃業、もっというと……亡くなってしまうと即廃業、となることも珍しくない。都内のキャバレーもまたそうだった。