ここは違った。先代は晩年に後継者を探したがなかなか見つからず、全く別業種のサラリーマンだった息子・泰三にも当初は継がせる気はなく、本人もそうだったが、父から後継を依頼された後、突然気がかわる。それまでちゃんと見たことがなかった父の店へ足を踏み入れると――。
「この景色をみて、これ(跡継ぎ)断っちゃいけないですよね?」
宮田は広々したゴージャス空間を振り返りほほえむ。こうして3年前、コロナ禍のはじまる直前に店を引き継いだわけだが、自分のものとなったはずの店への視点は、客観性を強く感じさせるものだった。
「私が継いだ直後は、破れたソファはタオルで隠している状態でした。そういうところはチンチラ生地で補修したりしましたし、男女共用だったトイレは現代的にしっかり別にしましたね。でもレイアウトなどは一切いじっていないんです。それにこの内装の曲線、一度壊してしまうと再現するのは難しいそうなんです。私は『どう残すか』、を考えています」
冒頭、部外者である私がこの店に足を踏み入れたときと同じ感動を、親の作った店ながら宮田も感じ、その肌感覚を忘れないようにして経営をはじめたのだろう。代替わりしたとて、内装に余計な演出や自分好みのカラーを加えはしない。極力オリジナルを保守して維持しようとしている。
言い換えれば、グランドキャバレーが、戦後昭和期の第一等の文化財であることを、経営当事者でありながら大切にしているということ。たしかに、貴重。バブル期の「トレンディ」で「なんとなく、クリスタル」な空気に流されテイストを変えたりすることもなしに、よくぞ、と思う。宮田は、近年のキャバレー事情をこうしめくくる。
設備の老朽化と賃料が衰退の一因
「それでもここ10年でキャバレーの閉店が続きましたよね。理由は、設備が古くなって、賃料にみあう収入がなくなってきたからでしょうね。首都圏にもうキャバレーがないのも知っています。うちがラッキーだったのは、店の上が本社で、ここが自社ビルなことなんです」
にっこり笑うが、彼が挙げた賃料の点はキャバレー衰退の一因に違いない。大きな箱は維持も新設も難しくなっていった。東京に最後まで残っていたキャバレーも、自己所有物件のケースがあったのが思い出される。宮田の企業グループの中で、いま残るのはこの自社ビル店舗のみ。
ただ、盛衰の大きな動きは、ひとつの理由でなく、いくつかの小さな理由が絡まって起こる。以後、ひとつひとつを数えていきたい。そのことで一キャバレーの話にとどまらず、過去と今の人の歓楽の変化も見えてくる――。
とここまで意匠の話をしてきたけれど、ここは現役店。骨董的な価値よりも、今遊ぶ当事者の声も聞きたい。ここからは、50年近く店に通い続ける70代男性と現役のホステスたちに話を聞く。
撮影=細田忠/文藝春秋
参考文献:『昭和キャバレー秘史』(福富太郎著、文春文庫PLUS、2004年)
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