『平家物語』が難しい企画の光明に
鈴木はこの時のことを次のように振り返っている。
井上さんの資料を手に東京へ帰る途中、高畑監督とぼくは『狸』の映画を作ることに挫折しそうになっていました。そして、かわりに『平家物語』を作ろうかなどと話し合ったりしました。東京に着くなり、仕方ないのでそのことを宮崎監督に報告すると、いきなり怒られました。(劇場用パンフレット)
鎧姿の武者を描き、動かし、色をつける作業は、想像を絶するほど困難だというのが、宮崎の主張だった。高畑も宮崎の意見には納得し、『平家物語』の企画はそのまま立ち消えとなった。ところが、この『平家物語』というアイデアが「狸」という難しい企画の光明となった。
1992年6月になり、高畑から鈴木に提案があった。
狸たちが主人公の『平家物語』はどうでしょうか(略)『平家物語』の人々の激しく生き、壮烈な死にざまをさらす姿を狸に置き換え、集団劇として描くんです。そこに狸の化け話と時代を現代に持ってきて、狸が開発によって住処を追われるさまを結び付けるという案です。(同前)
こうして基本となるアイデアがようやく固まり、企画が具体的に動き出した。
4種類のスタイルで描かれるタヌキ
8月、準備班が発足。高畑がプロットを固めていくのと並行して、大量のイメージボードが描かれた。
描いたのは、キャラクターデザイン・作画監督の大塚伸治と、画面構成の百瀬義行。2人によるイメージボードは映像的なイメージの構築に大きな役割を果たしたため、2人の名前は前述の役職名以外にイメージ・ビルディングとしてクレジットされている。2人のイメージボードは、『菩提餅山万福寺本堂羽目板之悪戯 総天然色漫画映画『平成狸合戦ぽんぽこ』イメージ・ボード集』としてまとめられた。また高畑は制作準備期間中にスタッフに向けて、一種の演出ノートとして「たぬき通信」を執筆。そこにはタヌキに関して知っておいたほうがいい情報や、『平成狸合戦ぽんぽこ』の演出スタイル、あるいは題名の由来などについてまとめられていた。
9月にプロットが完成すると、高畑は引き続きシナリオ作業に入り、12月にはシナリオ決定稿がアップ。そこから高畑と百瀬は絵コンテ作業に入った。そして翌1993年2月には作画インとなり、いよいよ本格的に制作がスタートした。