国鉄再建法の成立で南阿蘇を鉄路でつなぐ構想が頓挫
熊本地震が起きた時、すぐに思い出した鉄道があった。
「山の向こうに高千穂線があったでしょう。同じ道をたどるんじゃないかと、相当な恐怖でした。鉄橋の再建にはお金がかかるんです。高千穂線は何本も流され、復旧に費用をかけるだけの価値がないと判断されて廃線になりました」
高千穂線は南阿蘇鉄道と双子の鉄道だ。
宮崎県延岡市と熊本市を結ぶ九州横断鉄道として計画された路線の、宮崎県側と熊本県側だったからである。
歴史も似ている。高千穂線は1939(昭和14)年に延岡-日之影間で開通し、当初は「日之影線」と呼ばれた。五ヶ瀬川の水運で搬出されていた木材や木炭が早く大量に輸送できるようになり、沿線の発展に寄与した。だが、戦争の激化で日之影より山側の工事は中断。高千穂まで延伸して「高千穂線」と呼ばれるようになったのは1972(昭和47)年だった。
1973(昭和48)年、熊本県側の高森駅と宮崎県側の高千穂駅の間の約27kmを結ぶ工事が始まった。しかし、高森トンネルの工事で出水事故が起きて難航。その間に国鉄の赤字再建が叫ばれ始め、1980(昭和55)年に国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)が成立してしまう。新線建設の予算は凍結された。
神話の舞台の高千穂と、雄大な自然が広がる南阿蘇を鉄路でつなぐ構想は頓挫したのだった。
台風14号の被害で全線廃止に
それどころか、熊本県側では1981(昭和56)年に高森線(現在の南阿蘇鉄道)が第1次廃止対象路線になった。高千穂線も1984(昭和59)年に第2次廃止対象路線とされた。
高千穂線の沿線では「乗って残そう高千穂線」運動が起き、一時的に輸送人員が増えた。このため廃止協議は中断されたが、分割民営化後のJR九州になってから第三セクター化された。そして1989年4月、「高千穂鉄道」としての運行が始まった。
高森線の沿線でも鉄道として残してほしいという署名運動が起きたが、高千穂線よりひと足早い国鉄時代の1986(昭和61)年に第三セクターの「南阿蘇鉄道」に転換した。
三セク化後は、地元の足として残すために観光客の運賃収入に頼るという経営形態も、両鉄道に共通していた。
だが、2005年に台風14号が来襲。高千穂鉄道は寸断されて、橋梁流失・築堤崩壊・道床流失・車両水没といった被害額が26億4000万円に上った。特に流された2本の鉄橋の復旧は厳しく、そのまま復旧工事に着手されることなく、2008年に全線廃止となった。
南阿蘇鉄道で被災した第一白川橋梁は、阿蘇のカルデラに源流を発する白川が外輪山をうがって流れ出す切れ目の峡谷にあり、高さが約60mもある。これを架け替えなければならなくなったのだから、高千穂鉄道の廃線を我がことのように感じてきた寺本さんが危機感を抱くのは当然だった。