尊氏は「理解不能な男」
――何も考えていない尊氏とは対照的に、弟の直義や師直は生真面目に物事を考えている。尊氏本人でなく、直義や師直の視点から書くと決めていたわけですね。
垣根 尊氏を書くならそれしかないと思いました。なぜかというと、尊氏の内面を書こうとすると変なアプローチの仕方になるんです。それだとエンタメとして成立しない。だって、ちょっと指先を怪我して「痛い」と言う時は本当に「痛い」としか思っていないんです。「痛いな。明日の朝にはこの傷治ってるかな」みたいなことを延々と書くのはエンタメとしてはちょっときつい。
それよりも、理解不能な男を、身近にいる常識的な人間が見て「このバカタレ」と怒ったり感動したりするという、オーソドックスなスタイルを取ったほうが、確実に尊氏の人間性を炙り出せる。
弟の直義は本当に真面目だったと思います。だって尊氏が何もしてないのに、室町幕府ができているんですよ。尊氏は弟の危機が来た時だけ毅然として立ち上がるんですが、それがたまたま歴史を変える局面というだけだった。あの人は常にそうなんです。
――最初は弟が兄を慕って支えている印象でしたが、だんだん、兄も弟のことがめっちゃ好きじゃん、と思えてきますよね。
垣根 共依存のところがありますね。たぶん弟が死ぬ瞬間って、足利家の危機なんですよ。尊氏にとっては足利家の危機はどうでもよくて、弟に死なれたくないから行動するんですが、それが結果として足利家を救うという。
「シンプルに片側だけ書けばいい」
――しかし混沌としたこの時代をここまで分かりやすく書くのは大変だったのでは。
垣根 大変といえば大変だったんですけれど。全部書こうとするから分かりにくくなるのであって、シンプルに片側だけ書けばいい、というのが発想としてありました。なので、今回は足利家側の視点だけで書いています。
工夫としては、内部の同僚同士が相手をどう見ているかを書くこと。たとえば、師直が見た直義って明らかにやりすぎている。だって、そもそも直義が護良親王を殺して後醍醐天皇を大激怒させたんだし。
一方の直義は、師直が武士の肩ばかり持っているのを見て「お前、それ後世までたたられるよ」と言ったりする。足利家側からしか物語を照射していないんですけれども、内部の人間同士で批判することによって、逆側の立場からの見方も分かるようにしました。
――作者が途中で顔を出して、補足説明や解釈を語る部分もありますよね。
垣根 できればあの方法は使いたくないんですけれど、今回は思い切りやりました。師直と直義の視点でだいたい網羅できるんですけれど、本当にギリギリのところで神の視点を使わないと説明できないところが数か所あったんです。
冒頭で〈湘南、などというバタ臭い地名が出来る七百年も前から……〉と書いているのは、「今回はこういう書き方をするよ」という予告です。僕が顔を出す分、小説の完成度が落ちるとは思いましたが、完成度を落としてでも伝えたいことを優先しました。今回は許してね、という感じ。