私が住む千葉県と縁があることが印象に残り、自宅に戻った後に、増間氏の情報がネットにないかとフルネームで検索をかけた。すると、一冊の本がヒットした。『二人の海軍特年兵の記録』。共著者に「増間作郎」の名前がある。自分と同じ物書きの仕事をしていたようだ。増間氏のプロフィールに目を通す。
「昭和3年、宮城県生まれ。18年7月、横須賀海兵団入団、六十三分隊。19年5月、二十九期普通科兵器整備術(写真)練習生、洲ノ崎航空隊。同10月、洲ノ崎航空隊七十分隊。20年5月、整備兵長。同8月、三十期高等科兵器整備術(写真)練習生。終戦より復員」
衝撃を受けたのが、昭和3年生まれで18年には海軍に入隊している点だった。生年月日から逆算すると、15歳で戦争に行ったことになる。今の時代でいえば中学生だ。
すぐに著書を中古本で入手した。内容は増間氏が若くして館山市の洲ノ崎航空基地に配属された話と、戦地に行ったもう一人の少年兵の体験記が二本立てで収録されていた。本書を通じて、初めて「海軍特別少年兵(特年兵)」という言葉を知ることになった。
「14~15歳のあどけなさの残る志願兵」には不釣り合いな痕跡が…
著書のタイトルにもなっているこの言葉は、1942~1945年にかけて旧日本海軍が14~15歳を対象に採用した最年少の志願兵のことである。訓練を経て航空基地や艦船部隊へ配属されたが、海兵団に入団した1万7400名のうち、5000名が命を落としたという。増間氏は、その特年兵の生き残りであり、その記録を著書に書き残した人物だった。
円筒の帽子入れと海軍帽子の他、一緒に入っていた略綬や肩章などの小物類をSNSにアップした。すると旧日本海軍に詳しい知人から連絡が入った。
「略綬から察するに、第二次世界大戦よりも前から職業軍人として活躍された方の所有物の可能性が高いです。肩章は星が3つあるので、海軍大尉までなられた方だと推測します」
この指摘で、ある矛盾に気が付いた。増間氏は特年兵だったので、終戦時は17~18歳、一方、略綬や肩章から推測すると、この海軍帽子の持ち主は地位の高い人であり、終戦時は40~50歳と考えられる。そうなると、この海軍帽子は増間氏の所有物ではない可能性が高いといえる。