2019年、宮城県丸森町で豪雨災害のボランティアをしていた著者は、丁寧にケースに保管されたとある海軍帽子を拾うことになった。難航しながら落とし主と思われる人物「増間作郎」の足跡を辿り、彼が15歳ほどで軍隊に入った「海軍特別少年兵(特年兵)」と呼ばれる境遇にあったことを知る。
一方で、帽子には少年兵にしては不釣り合いなほど高い軍隊の役職の痕跡が残されていた。気がかりは残りながらも帽子を資料館に預けることになった矢先、著者のもとに一通の手紙が届くのだった。
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手紙の差出人は、予想もしていなかった人物だった。
「増間作郎の娘です。帽子を預かっていただきありがとうございます」
丸森町で海軍帽子を預かった直後、増間氏の親族に手紙を出していた。遺品を保管していた住宅の隣の家が「増間」という名字だったことは確認していたので、帰宅後に遺品のことを書いた手紙を郵送していたのだ。
しかし、それから1ヶ月、返事が来ることはなかった。その家は既に空き家になっていると思い、連絡を取ることを諦めていたところに飛び込んできたのが、増間氏の親族からの手紙だった。
「水害があった後、あの家で一人暮らしをしていた母を連れて、私が住む宮城県の別の地域にずっと避難していたんです」
増間氏の娘さんが久しぶりに丸森町の家に戻ってきたところ、ポストに入っていた私の手紙を発見し連絡をくれたというのが、返事までの経緯だった。
お父様の話を聞かせて欲しいと伝えたところ、丸森町の自宅で、娘さんとお母さん、つまり増間氏の奥様とお会いする機会を頂けた。私はすぐに宮城県まで車を飛ばして会いに行った。
あどけなさの残る少年兵が「自分の写真を2枚用意していた」理由
「責任感の強い人でしたよ。話すのも好きな人で、書くことも好きな人でした。世話好きな人で、よく戦友会のまとめ役を引き受けていました」
奥様のご年齢は92歳。会話もしっかりしていて、記憶も鮮明な人だった。自宅を訪れると、増間氏の残した資料や写真を見せてくれた。その中に、ひときわ目を引く水兵の制服を来た少年の写真があった。
「夫が特年兵の頃の写真です」
小学校の高学年ぐらいにしか見えないあどけない表情だった。その写真の横に、かすれた文字の一文が目に入った。
「万が一のことを考え、この写真を二葉作成していた」
思いを込めた写真は“枚”ではなく“葉”と数えることはなんとなく知っていた。つまり、「何かあったときは、葬式用としてこの写真を2枚用意していた」という意味なのだろう。15歳で死を覚悟したと思うと、胸が痛くなった。