「それは辛いことですよ」
7月の上旬、館山航空隊の基地に出向いた。戦争遺品の一部を自衛官が譲り受けたという話を聞き、基地の展示室に増間氏が預けた戦争遺品があるのか確かめに来たのだ。
広報担当の自衛官に案内されて、展示室に入った。そこには「増間作郎」の名義で、従軍記章と勤務参考資料の2点がガラスケースに入れられて展示されていた。
増間氏が志半ばで実現できなかった展示室が、時を超えて、自分が所属していた洲ノ崎航空隊のあった自衛隊基地に建てられたのである。これも増間氏の持つ強い執念のなせる業だと思った。
自衛隊の広報の人に、もし、自分の軍帽や肩章が被災ゴミとして捨てられてしまったらどう思うか尋ねると、「それは辛いことですよ」と答えが返ってきた。
「自分が命を懸けて国を守ってきた証ですからね。気持ちとしては一緒に棺桶に入れて欲しいという思いはあります」
命に代えて祖国を守った人の気持ちは、時代を超えても変わらないようだ。
戦後80年近くになった遺品たちの“現在地”
同じ時期、お礼と報告を兼ねて、岩手県奥州市の「平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館」にも訪れた。預けた嵯峨氏の海軍帽子は、丁寧にクリーニングされた後、館長が補修し、一定温度に保たれた室内で大切に展示されていた。
「戦時中、カメラを撮影する技術を持つ人は少なかったと思います。日中戦争から活躍されていた嵯峨さんは、重要な任務に就くことが多かったのではないでしょうか。海軍の戦争遺品は海に沈んでしまうケースも多いので、この軍帽は非常に貴重だと思います」
思い返せば、増間氏の残した資料の中には、洲ノ崎航空隊の写真以外にも、上空から撮影したどこかの航空基地の写真や、編隊を組む戦闘機の写真、茨城県の霞ケ浦の航空基地から飛び立つ飛行船の写真など、特年兵の増間氏が撮影したものとは思えない写真が何点もあった。もしかしたら、嵯峨氏が戦時中に撮影した貴重な写真なのかもしれない。
これらの写真や資料を、今後、どのように後世に伝えていけばいいのか。館長曰く、最近は軍服や勲章などの戦争遺品がネットオークションにかけられ、貴重な歴史的資料が海外に流出してしまうケースが多いという。
「戦中に頑張った人の証をお金に代える人がいるのは、やはり嘆かわしいことですよ」
戦争遺品との新たな付き合い方――増間氏から大きなテーマを突きつけられることになった。この回答を導き出すにはもう少し時間がかかりそうである。