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戦後も続いた戦友たちとの交流…「増間作郎の夢」

 奥様は懐かしそうに増間氏の話をしてくれた。

 増間氏は館山の洲ノ崎航空隊に配属されると、敵地を偵察するための「航空写真分隊」に入隊した。しかし、同期の特年兵の中には、戦艦に乗り、戦死した人も多かったという。

 終戦後、丸森町に戻った増間氏は、亡くなった同期の生きた証を残したいと思い、生き残った仲間達に声をかけ、慰霊碑の建立や会合のとりまとめなど、様々な行事を取り仕切るようになった。

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館山航空基地にある海軍航空隊写真分隊の記念碑。増間氏をはじめとした旧海軍の人たちが建てたという

「特年兵の人たちだけでなく、海軍の偉い人もよく家に出入りしていましたよ。家で食事を振る舞って、泊まっていく人もたくさんいました。夫もそういう人たちと話をするのが楽しかったんだと思います」

 増間氏とあの海軍帽子の接点も、そんな戦後続いた仲間との交流に端を発していた。

「夫は戦争関連の資料や写真を集めた展示室を作りたいと言っていました。そんなとき、知人から『亡くなった父の戦争の資料を預かってくれないか』という連絡があったんです。そうこうしているうち、10箱ぐらいのダンボールに入った戦争遺品が自宅に送られてきました」

 その後、館山航空基地の自衛官が訪れ、『基地に展示室を作りたい』という申し出を受けて、増間氏は資料の一部を譲渡したという。しかし、自らも展示室を作ろうと思っていた矢先、病に倒れ、志半ばの73歳で他界。手元に残ったのが、この海軍帽子であり、それを隣の家の親類の納屋に保管していたところ、水害で流されてしまったのである。

被災した丸森町の現場写真。ここで帽子を発見した

電話帳をめくると、見覚えのある文字が…

 奥様に戦争遺品を詰めたダンボールの送り主のことを覚えていないか尋ねた。しばらく考えた後、一冊の古い電話帳を取り出した。

「兵庫県洲本市の人だったと記憶しているので、たぶん、この人だと思います」

 名簿には女性の名前があった。そして、その横に『嵯峨武』という、帽子の裏に記されていた、平仮名の「さが」と同姓の名前が書き記されていた。

 電話帳に書き記されていた女性の名字は「嵯峨」ではなかった。おそらく、この戦争遺品をダンボールに入れて送ったのは、嫁いだ嵯峨氏の娘さんの可能性が高い。連絡を入れようと思ったが、その直後に新型コロナウイルスの感染が拡大。高齢者への取材は中断せざるをえなくなった。