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かかってきた1本の電話「嵯峨武の孫です」

 その確証を得るために、改めて遺品をダンボールに入れて増間氏に送ったと思われる女性に手紙を出した。1週間後、1本の電話が入った。

「嵯峨武の孫です」

 親族の男性からだった。戦争遺品を送ったのは、そのお孫さんの母親、つまり、嵯峨氏の娘さんだという。ご存命ということもあり、嵯峨氏について、お孫さんと娘さんのお二人に、電話で話を聞かせてもらうことができた。

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 嵯峨氏は明治45年生まれで、志願兵として海軍に入隊。写真を撮影する偵察部隊に所属し、戦闘機に乗り、国内外の写真を撮影して回ったという。終戦後は飲料水の商いを手掛け、淡路島で経営者として活躍、成功を収めて財を築いたという。

「おじいさんは口数が少なかったけど、リーダーシップのある人でしたよ。経営者としても、元海軍の軍人としても人望のある人でした。亡くなった時は電報がパンクするほど来たらしいです。葬儀の日は『淡路島の花が全部なくなった』なんて言われたりもしていました」(嵯峨氏のお孫さん)

 海軍帽子はどのような経緯で増間氏に渡ったのか。

「父が亡くなった時、戦争の資料や写真をどのように処分すればいいのか分からなくて、当時、父と連絡をとっていた増間さんに相談したんです。そしたら、『それは大事なものだから引き取りたい』といってくれて、それで丸森町に私が送ったんです」(嵯峨氏の娘さん)

 点と点がつながった。やはり海軍帽子の持ち主は嵯峨氏であり、その戦争遺品を預かったのが、増間氏だったのだ。

増間氏が保管していた潜水艇の設計図。このほか、貴重だと思われる写真がいくつか保管されていた

ひとつだけ解せないことが…

 しかし、ひとつだけ解せないことがあった。それは、増間氏と嵯峨氏の接点だった。もし、嵯峨氏が洲ノ崎航空隊の写真分隊の上官であれば、増間氏の著書の中に、「嵯峨武」という名前が出てくるはずである。しかし、著書の中に、嵯峨武という名前は出てこなかった。

 私は再度、増間氏の親族と連絡を取り、丸森町の自宅に出向いた。残された資料や写真の中に、増間氏と嵯峨氏の関係性を示すものがあるのではないかと思ったからである。

 しかし、資料の中には二人のつながりを証明するものは何一つ見つけることができなかった。洲ノ崎航空隊の写真付きのアルバムも発見したが、その中にも嵯峨氏の名前はない。ただ、「『空写会』ってご存じですか?」と娘さんに尋ねたところ、しばらく考えた後に「あぁ」と言って、家の奥から紙の束を取り出してきた。

「父が大事にとっていたもので、見覚えがあったんです」

 手渡されたのは、「空写会」と表紙に描かれた会報誌だった。増間氏は嵯峨氏が立ち上げた空写会のメンバーだったのだ。

増間氏の自宅で発見した「空写会」の会報誌。「K8」は当時の写真機の名称らしい

 増間氏は嵯峨氏の立ち上げた「空写会」に入り、偵察写真の技術を学んだ仲間の一人として、様々な会合を取り仕切っていたのだろう。そして、嵯峨氏が亡くなったとき、遺品の中に戦中の資料や写真が多数あることから、「展示室を作ろう」という発想に行き着いたのではないか。

 しかし、その後、病に倒れ、行き場を失った海軍帽子は、台風の水害とともに瓦礫と共に流された。被災ゴミとして処分されるところを、偶然私が拾い上げた……ということだったのだろう。