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気がかりな帽子の裏の「文字」

 そこで気になったのが、海軍帽子の裏に描かれていた「さが」という平仮名の文字だった。旧日本海軍には「嵯峨」という砲艦があり、私は勝手に「『嵯峨』の乗組員だった増間氏」というストーリーをイメージしていた。

 しかし、その後の調べで、海軍の帽子には本人の名字を記載するため、「さが」はこの帽子の持ち主の名前の可能性が高いことが分かった。つまり、この海軍帽子の所有者は増間氏ではなく、「さが」という人物であり、増間氏が預かっているという設定のほうがしっくりくる仮説となった。

海軍帽子の裏側に刺しゅうされていた「さが」という文字。砲艦の名前だと思ったが、調べた後、軍帽の持ち主の苗字だということが分かる

「さが」とは一体誰なのか? そして、なぜ、増間氏は「さが」という人物の遺品を大切に保管していたのか?

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 さらに謎が深まり、「日本海軍 さが」のキーワードで色々と調べてみると、あるサイトの旧日本海軍の軍人リストの中に、それらしき人物の情報があることを発見した。

佐賀辰夫 福島県出身 1944年 「雲龍」沈没時に死亡

「雲龍」は特攻兵器「桜花」をフィリピンに輸送中、アメリカの潜水艦の攻撃にあい、撃沈した航空母艦だった。この船の機関長だった佐賀辰夫氏は福島県出身、宮城県出身の増間氏と東北つながりで、何かしら関係があったのではないか。

 ウィキペディアによると、雲龍は横須賀海軍工廠で建造されており、横須賀海兵団に入団した増間氏とは、何かしら接点があった可能性が高いように思われた。

遺族会からは「佐賀辰夫氏の軍歴を調べたところ…」

 戦争遺品は遺族に返すのが筋だと思い、海軍帽子の経緯を書き記した手紙を、雲龍の遺族会「雲龍会」に送付した。すると、事務局の方から返事があり、下記のような内容が記されていた。

「佐賀辰夫氏の軍歴を調べたところ、増間作郎氏との接点は残念ながら見つけることはできませんでした。ただ、横須賀基地で従兵勤務として佐賀氏の身の回りのお世話をしていた増間氏が、急に戦地に赴くことになった佐賀氏の遺品を同郷のよしみで預かった可能性があるかもしれません。